2014年12月31日水曜日

藤尾 州「天へ取り成す綿虫を掌に掬ひ」・・・



 藤尾州、聞かない名だと思った。しかし、封筒の裏の署名には、一の宮市・・小川二三男とあったので、すぐに小川双々子縁の方だと思った。その小川双々子が逝ってからすでに八年が経つのだ。
 もう随分昔になるが、坪内稔典、武馬久仁裕などと「現代俳句」のシンポジウムを名古屋で開催し、その折、双々子門「地表」の面々には、われら俳句の若造どもを大事にしていただいた恩ある想い出しかない。
 話を元に戻して、掲出の句は藤尾州句集『木偶坊』(木偶坊俳句耕作所)からである。著者略歴をみると1948年生まれだから、団塊世代のまっただ中、愚生と同年、句歴も1969年「地表」主宰者小川双々子に学ぶ、とあるから、愚生とほとんど変わらない。
それだけで、来し方に親近感をもってしまうが、藤尾州の場合は1998年にクモ膜下脳動脈瘤による開頭手術や、その後も頭皮下膿痬にて手術とあって、順調とはいえない。現在は体調良好とあるから、他人ごとながらめでたい。
 藤尾州の由来については、「あとがき」に以下のように記してある。俳句の場に再びもどってからの感懐。

やっぱり四十年以上続けた俳句、「高が俳句然れど俳句さくら咲く  州」だ。何が何でも俳句、という高い志向は捨てて、独り好きな時に好きなようにゆったりと書けばいいではないか、と思い至った。その厳しかった「地表」が、小川双々子が絶対と思っていたから、「地表」の小川二三男を引き摺ってまで俳句を書こうとは思わなかった。新しく気儘に俳句を書こうとするからには名前でも変えて俳句を書こうと、そして藤尾州とした。「藤尾」は二三男の捩り、「州」は小と川との合体である。

ちなみに句集名については、

藤尾州に名前を変えてもやっぱり役に立たない人であり、小川二三男だった時も機転の利かない人だったから、この句集は『木偶坊』とすることにした。木偶坊が木偶坊なりに『木偶坊』なる句集を出すまでになった。まことにめでたいことと思っている。

最期に、愚生としても少なからぬ想い出のある「地表」俳人の弔句があったのでそれを主に挙げたい。

       悼 小川法子
   ふきのたう残し天へと昇りてけり
       弔
   十五夜を見つけてうれし岸貞男は
       悼  五藤一巳
   空蝉ぼ背割れ鋭き訣れかな
       悼 坪内茜草
   野しやうぶの鮮やかが野を物語り
       小川双々子追悼句
   土筆出る尽して哀し時の来て
       悼 伊吹夏生
   遠伊吹ああ惜別の雪一片
      悼 白木 忠 
   黒穂麦なにゆゑにもう燃えたのか
      悼 須藤 徹
   郡上市よ無上に淋し蜩鳴く
   

    草紅葉百人は去り一人ゐる      
    約束の雲雀は消えてうたひをり
    白線を流すはるかを疑はず
    雪吊や海を遠くに忘れ水
    不覚にも啓蟄の虫水に浮き




    
・閑話休題・・・

皆様、よいお年をお迎え下さい。



2014年12月28日日曜日

山内将史「ブランコに影が来て乗り揺りにけり」・・・



山内将史。この名を聞いてかつて永田耕衣「琴座」の同人だったことを知る人は今は少ないように思う。「琴座」も永田耕衣の死去により廃刊。たぶんその頃から、彼は「山猫郵便」を不定期で発行し続けている。掲出の句は、このほど[山猫郵便二百三十九号/二〇一四年十二月一日]のハガキのものである。
彼は童話を書いたり、ドラマの脚本を書いては応募しているらしい。
山内将史は愚生より少しばかり若いと思うが、ほとんど何も知らない。しかし、ハガキによる個人通信を毎号恵まれているので、その発信し発行し続ける意力には敬意を禁じ得ないのである。

今号の通信には以下のように記されている。

   初雪やかけかヽりたる橋の上    松尾芭蕉
 永遠に完成しない橋は、人の魂ににている。といっても、新大橋は完成するのだが、芭蕉も永遠に完成しない橋を見ていたような気がする。
イデアにかかっている橋の姿を。
  わが学堂拭くや袋に雪つめて      安井浩司『宇宙開』
 幼年時代より深い昔、私もそんなことをした記憶がある。聖なるものを、卑なるもの達が、寄って集まって磨き上げ、より輝かせているイメージが浮かぶけれど、そう書かれている訳ではない。宮沢賢治と安井浩司は掌に握る雪の痛さを知っている北国の詩人だ。

                  クチナシの実↑


2014年12月26日金曜日

川本浩美「いつかどこかの避難所のさむき床のうへに天皇の手を握りてわれは」・・・



題に挙げた歌は「月鞠(げっきゅう)」第15号の巻頭書評で辰巳泰子が取り上げていた歌の中の一首だ。
愚生は歌人・川本浩美を知らない。でも、辰巳泰子が川本浩美歌集『起伏と遠景』(青磁社)の書評のために引用した歌は、いずれも胸を打った。遺歌集らしい。阪神淡路大震災に遭遇した折の歌もある。

   竜の屍(し)のごとく地上に倒れゐる高速道路を朝日は照らす     浩美

東日本大震災では次のように詠んでいる。

  その父親「生きててけろ」と言へりけり字幕には「生きていてくれ」

「月鞠」は、「豈」と同じく不定期の年2回刊予定である。しかし、「豈」は同人誌だが、「月鞠」は主宰誌。当然ながら主宰誌の方が筋の通り方がすっきりしているようだ。
その編集後記にはこう記されていた。

  立ち方は、一つです。
  照る日も陰る日も、互いに支え合うと決めてあるのだから、照るも陰るも、関係ありません。照る日も、陰る日も、堂々とまいりましょう。(編集発行人)

・閑話休題・・・
私ごとながら、昨日から、山の神がインフルエンザで寝込んでしまった。
まあ、薬がよくきいて回復基調ではあるが、従来にも増して主夫業に専心することと相成らざるを得ず、自らも大事をとって、当面する忘年会などすべてパスすることにした(御免!)。


                    マンリョウ↑

2014年12月22日月曜日

『昭和俳句作品年表(戦前・戦中編)』・・・



俳句にとってじつに貴重な書物が刊行された。『昭和俳句作品年表(戦前・戦中編)』(編集・発行現代俳句協会 発売・東京堂書店、2700円+税)である。俳句作品年表を作る案は、もとは現代俳句協会創立60周年記念事業として平成18年6月17日に立ち上がったという。雑誌の初出にあたり、表記を確認するなどのなかで、亡くなられた委員や、東日本大震災など、曲折を経てようやくなった一書である。すでに8年の歳月を要したということになる。さらに今後は戦後編に取り組んで行くとのことである。そうすれば、昭和という時代に書かれた俳句表現の来し方、更新され続けた俳句作品の志が一望できることになる。宇多喜代子は「おわりに」で、

これまでの俳句辞典や研究書などに附された「俳句史年表」は主に俳壇の動向や目立った俳人の句集の刊行年、俳誌の創刊などの記載が多く、それはそれでおおいに参考になる内容ではあったのだが、いわゆる流派党派を越えた俳人たちの作品を網羅した「俳句作品年表」というものがなかった。

本書に入集した句はあくまでも全俳句の一部であり、疎漏も多いことと思われるが、昭和を知らないお若い方々の、「昭和俳句」を知るきっかけ一端になればいいと思うばかりである。

と述べている。また、「はじめに」では、宮坂静生現代俳句協会会長が、以下のように記している。

従来から、昭和の俳句に関し、基礎資料がないわけではない。俳句家結社の動向や俳壇の状況や俳句運動についてまとめられた記録はある。しかし、俳句表現を重視して、その展開を跡付ける俳句作品年表は今回はじめてまとめられたものである。(中略)

纏められた俳句年表の特徴は編年体により昭和元年(一九二六)から昭和二十年(一九四五)まで四章に分けられ、作品は各省別に年次ごと、アイウエオ順に配列されている。
 一章は昭和元年から六年まで「ホトトギスの隆昌」、二章は昭和七年から十年まで「新興俳句運動起る」、三章は昭和十一年から十五年まで、「無季新興俳句の成熟」、四章は「昭和十六年から二十年まで「太平洋戦争下の俳句」がそれである。

そして、巻末に附された川名大「昭和俳句の軌跡ー解説にかえて」は貴重な俳句史を描き出し、懇切丁寧である。
俳人にとって座右に置きたい欠くべからざる一書となるにちがいない。
最初と最後部分を紹介しておこう。

【昭和元年】
雛の座にカチカチ山の屏風(びやうぶ)かな    相島 虚吼
水洟や鼻の先だけ暮れのこる            芥川龍之介
炎天や人がちいさくなつてゆく            飛鳥田孋無公
案山子翁あち見こち実や芋嵐            阿波野青畝
極寒のちりもとどめず巌ぶすま           飯田 蛇笏
死ぬものは死にゆく躑躅燃えており        臼田 亞浪
わらやふるゆきつもる                荻原井泉水
入れものが無い両手で受ける           尾崎 放哉
レール闇から曲がつてゐる             小沢 武二
凩のいづこガラスの割るる音            梶井基次郎
ねこに来る賀状や猫のくすしより          久保より江
したたかに水をうちたる夕ざくら          久保田万太郎
シャツ雑草にぶつかけておく            栗林一石路
     以下略 

【昭和二十年】
玉音を理解せし者前に出よ            渡辺 白泉
二日月神州狭くなりにけり             渡辺 水巴
鷹舞へりつねのごとくに天ヶ岳          吉岡禅寺洞
炎天の遠き帆やわがこころの帆         山口 誓子
芋の軸捨てたるごとく干すごとく         八木三日女
我が家の対岸にきて春惜む           森田 愛子
地に墜ちた椰子に蟻くる終戦日         宮崎 重作
いつせいに柱の燃ゆる都かな          三橋 敏雄
敗戦のただ中に誰ぞ菊咲かせし        三橋 鷹女 
門とぢて良夜の石と我は居り          水原秋桜子
みちのくに田螺取り食ひ在りと知れ      松本たかし
降る落葉椅子の形に椅子の荷着く      松原地蔵尊
   十五日妻を焼く終戦の詔下る
なにもかもなくした手に四枚の爆死証明   松尾あつゆき
妻の掌のわれより熱し初螢           古沢 太穂
徐々に徐々に月下の俘虜として進む     平畑 静塔
山茶花やいくさに敗れたる国の        日野 草城
  以下略

ハナヤツデ↑

2014年12月21日日曜日

六林男「水あれば飲み敵あれば射ち戦死せり」(「muyou・六曜」2014 no.37))・・・



「六曜」は「鈴木六林男」の「六」とその主宰誌だった「花曜」の「曜」を組み合わせた誌名である。編集・発行人を六林男の弟子だった出口善子が務めている。
去る12月12日は六林男の忌日、没後十年にあたり、鈴木六林男の特集を組んでいる。10年を過ぎてなお、各同人の師への思いは深まるばかりのようである。その中から六林男語録を引いてみよう。

 暗うつな時代には暗うつを、不安な時代には不安を鮮明にうたえない人間を信用しないことにしている。

あるいはまた、望月至高は「六林男没後十周年によせて」の対談で以下のように語っている。

六林男の俳句が読まれていくには、わたしたちの表現が、大衆の無意識の戦争の欲望を切り裂くインパクトが持てるかどうかということでしょう。

一人の作家が生涯を通じて自己更新して新しい作品を作り続けたなんてまずいませんよ。ほとんど自己模倣に陥ります。それよりも時代に掴まれた作家がどう時代に応えたか、それが評価の中心でなければいけないでしょう。(中略)俳句一般として通じる感性や永続的なものを犠牲にしても、その時代=「現在性」に固執し、時代の固有性としての表現を追求せざるをえない。六林男は虚子や加藤楸邨のように戦争協力をしていい思いをした立場ではない。戦地で銃弾を受け体内に残したまま九死に一生をえて帰還している。これが俳人として「現在性」に固執しなかったらアホでしょう。(笑)

また、岡本匡は、

先生は、1、戦争にこだわる。2、現実に異議をとなえる。3、未来を念頭に置く。を信条とされ、「戦争と愛」を終生のテーマとされていました。

と記している。

大道寺将司は、六林男「暗闇の眼玉濡らさず泳ぐなり」の鑑賞で最後に以下のように述べているのが印象に残った。

六林男は暗闇の眼玉濡らさずに泳ぐと言い切ることで、危うい時代、戦前に戻ってしまうかのようなきな臭い状況を、しっかり目を開き、紗をかけたり、歪ませたりせずに見るという覚悟を詠んだのではないでしょうか。
 掲句の詠まれた時よりもまさに今その覚悟が問われているが故に瞠目しないわけにはいかないのです。




2014年12月20日土曜日

大岡頌司「ともしびや/おびが驚く/おびのはば」(「未定」98)・・・



第二次「未定」98号、表Ⅱの「一句鑑賞エッセイ」は田沼泰彦。その卓抜な俳句形式への識見を紹介したい。大岡頌司の三行の俳句に対して、次のように言う。実に見事な言い表しようである。

 そもそも俳句形式の成立には、必然性という「(不在=存在)証明(アリバイ)」を必要としたが、形式の破壊をアリバイにした重信を除けば、誰もがアリバイを探しあぐねていた。その中のひとり大岡頌司だけは、端から必然性を放棄していたと言っても過言ではない。その多行形式は、あたかも約束事であるかのように、上五・中七・下五で改行した三行表記で、改行の必然性として誇示できるような方法的道筋は見えない。そこには重信の敗北によって「形式」から姿を変えた「俳句形式」という、鄙びた風景があるばかりだ。敗北によって灯火にさらされた「俳句形式」には、すでに勝ちもなければ負けもない。勝ちといい負けといい、それは人知によって認識された存在様態に他ならず、大岡俳句の風景と人知とは相容れない。そこには、あたかも自然が分娩したような産血の温もりが感受される。つまり、大岡の前衛性とは、言葉の存在様態をその意味ではなく、その肉体性に求めた点にある。大岡の「アリバイ」とは、胎内回帰願望でもあるのだ。

     
田沼泰彦は先般『断片・天国と地獄』を刊行し、詩編と三行の句を縒り合せて、その出発からすでに独自の境地を展開している。
安井浩司はその書評に「昨今の俳句界に突如現れた新星である。しかし、彼を俳人と称するにはためらいがある。私には当初から、彼を詩人と呼ぶにふさわしい思いを遂に消すことが出来ない」とエールを送っている。
ともあれ、大岡頌司の三行句を以下に・・・

     ちづをひらけば
     せんとへれなは
     ちいさなしま


     しばのとを
     たたきつづけて
     われとなる

     花の忌や
     筑波も翔べぬ
     風の鷺



2014年12月18日木曜日

出光美術館「仁清・乾山ー風雅のうつわ」等・・・・




野々村仁清(ののむら・にんせい)、尾形乾山(おがた・けんざん)ともに江戸期の陶工。乾山は尾形光琳の弟で、画業は当然として、仁清に陶法を学んだという。京焼の上絵装飾を大成させたのが仁清ということになってるが、生没年ともに不詳。いわゆる仁清焼。
ともあれ愚生は全くの不安内なのだが、乾山の百人一首の色絵の皿、和歌の龍田川文の鉢などには興趣をそそられた。
「風雅のうつわ」と題されてはいたが、いかんせん風雅をめでる心映えにいまいち乏しい愚生にはもったいなかったかも知れない。
とはいえ、出光美術館の窓から見下ろす皇居の景色の美しさには見惚れた。



一方、パナソニック汐留ミュージアムはイタリアの画家「ジョルジョ・デ・キリコ」。副題は「ピカソが畏れた。ダリが憧れた」。こちらはシュルレアリスム絵画に影響を与えたというだけあって、幻想的な面白さがあった。このミュージアムの隣にあるのが旧新橋停車場・鉄道歴史展示室で、入場料無料ながら鉄道にまつわるあれこれは、鉄男、鉄子でなくても見て楽しめる。



冬空をいま青く塗る画家羨(とも)し           中村草田男
冬に飽き画廊土色の裸婦ばかり           澁谷  道
ボナールの海男はいつも毛糸着て          坂口漄子 



府中市内の公園にて↑



2014年12月16日火曜日

安井浩司「青銭やけむりしかけてわが奴(やっこ)」・・・



                                       酒巻英一郎と安井浩司↑

某日某夜、『安井浩司俳句評林全集』沖積舎刊行の労をねぎらって、酒巻英一郎(「「豈」事務局・「LOTUS」発行人)と安井浩司は卓を囲んだ。
表題に掲出した句は、「ユニコーン」第1号(昭和43年5月・ユニコーングループ・編集発行人、門田誠一)からの句である。
安井浩司によれば、過ぎること50年近く前、現在も続く、上野のこの鰻屋で「ユニコーン」立ち上げの謀議が重ねられたという。高柳重信の磁場から、もう一つの磁場を創造そようとしたそのエネルギーの渦中、最後まで、微笑みを絶やすことのなかった折笠美秋だったが、ついに首を縦に振らず「ユニコーン」に加わらなかった、と安井浩司は語った。その折、そこにいたのは大岡頌司、聞き漏らしたが寺田澄史あたりだったのかも知れない。その中心の一人・加藤郁乎はその誌に句を発表することはなく詩編のみを発表した。4号で事実上分解、終刊してしまう。
因みに同人名簿には、以下20名の俳人が名を連ねている。

伊藤睦郎・馬場俊吉・徳弘順一・大岡頌司・大橋嶺夫・大原テルカズ・加藤郁乎・吉本忠之・竹内義聿・竹内恵美・八木三日女・安井浩司・前田希代志・松林尚志・前並素文・藤吉正孝・酒井弘司・島津亮・東川紀志男・門田誠一。

いまはすっかり消えてしまった幾人かの俳人がいる。



この日は、前々日から秋田県に降り続いた大雪が心配されたが、安井浩司は無事上京・・・。企画編集校正を担当した酒巻英一郎と版元・沖積舎を訪問。





2014年12月12日金曜日

宇多喜代子さんとの夕べ(さろん・ど・くだん 第11回)・・・



昨夜は、山の上ホテルで「さろん・ど・くだん 第11回 宇多喜代子さんとの夕べ」に出かけた。
宇多喜代子の講演は、古代米・赤米を発見し、神事で行うためにのみ唯一、栽培されてきた赤米を宇多喜代子とその友人が見つけ復活にこぎつけ、ルーツの中国にも何度も出かけて行ったこと。今では、その杯いっぱいのわずかの赤米が一粒万倍となって、それが売られてもいること。そうしたあれやこれやを実際に田んぼ作りから行ってきたこと、農耕の現実が歳時記のそれにどのように反映され、またずれてきているかなど、興味深いものであった。
今年栽培された赤米の穂を持ち出しされた時には、その赤い穂の美しさに会場には、歓声とため息が漏れた。
そして、それが「枕草子・第210段」には、稲を刈る姿と共に「これは 男どもの いと赤き稲の 本ぞ青きを 持たりて刈る」と書かれていたことを見つけたと話された。

                                      

当日は、また、『宇多喜代子俳句集成』から『円心』の冊子を抜き刷りして第七句集として配布された。句集名の由来は、なかに「円心 三十句 三月十一日以降 原発を円心として」と前書が付された句群が収載されいることから。
それらの句以外からも以下に少し掲げておこう。

     満身に春風一生かくも長し        喜代子
     生きているか動物図鑑の蛇や亀
         長崎
     臥してみてまことに青き芒原
     いま飲んだ水を涙に夏夕べ
     終戦といえば美し敗戦日
     八十になればなったで汗しとど
     わが地球きみの地球や薄氷
     並び出て毒かもしれぬ蕨の芽
     団体で来てみなひとり春田べり




   

2014年12月7日日曜日

竹岡一郎「邯鄲落とせば空井戸少し湧くかしら」(ガニメデVOL62)・・・・



「GANYMEDE 62」、詩の雑誌とばかり思っていたら、詩歌文藝誌とあって、詩・短歌・俳句・批評、無いのは小説だが、総合文藝誌の趣。とにかく一挙に俳人の搭載数が増えているのに少し驚いた。それもいわゆる結社主宰者クラスというところ、それも句数は多くは50句、また箭内忍にいたっては詠み下し小句集100句というから、いずれも力技というべきか。とはいえ、ここでは全員を紹介する余裕もないので、贈呈をいただいた幾人かの方々と「豈」同人のみ、愚生好みの句を挙げておこう。

   砲撃のいくつが鳩に変はるだらう        青山茂根
   凍結精子ずらり兵士の名が書かれ
   立ち上がるための木が無いよ焦土

   捲らるるへのこへ何で虹の熟(うれ)       竹岡一郎
   ジョージとジュンもつるる溽暑嗚呼うつちやり
   視えるものみな揉みにけり月球も

   糸電話よりがうがうと滝の音           広渡敬雄
   うす紅の貝の箸置き大南風
   ノから乃に四股名を変へて藍浴衣

   拡げたる五指より生まれ海に虹         花谷 清
   弾かれており抱かれており白露
   つゆけしやチェルノブイリの首飾り

   重力は磁石に敗れ蟬の声            関 悦史
   月蝕に勃起止まぬと言ふ男
   ビニール傘もフェンスも枯蔓に呑まれ
   

因みに、搭載された他の俳人諸氏は、鳴門奈菜、増田まさみ、小野あらた、滝澤和治、長嶺千晶、渋川京子、大木孝子、福井隆子、浅井民子、大島雄作、加古宗也、柴田佐和子、対中いずみ、辻美奈子、西山睦、橋本榮治、渡辺誠一郎、ふけとしこ、藤本美和子、峯尾文世、本井英、井上康明。

枯れリュウキュウカラスウリ↑

2014年12月2日火曜日

佐藤文香「手紙即愛の時代の燕かな」・・・



掲句は、佐藤文香『君に目があり見開かれ』(港の人)より。
いまは、「手紙即愛の時代」ではないのだろうか。それとも、そういう手紙が出されない時代だからこそ、かえって「手紙即愛の時代」になってしまうのだろうか。
前者なら、謹呈の便りに付されたように「三橋敏雄・渡邊白泉を、とくに近しく感じるようになりました。自分なりに新興俳句を更新するべく、新しい俳句を書いていきたいと思っています」という戦前の新興俳句の時代に近い、手紙のことだろう。
愚生にとっては、三橋敏雄も高屋窓秋も最後まで新興俳句の俳人だったという印象だ。それは二人ともついに最後まで時代と社会における自身の在りようを書き続けた俳人だった、ということである。
 ならば、その片鱗を佐藤文香の句に認めることが可能だとすれば、それは現代の現在の猥雑さを句に留めようとする痕跡を認めることができるか否かということにかかっていると思う(たとえ「レンアイ句集だとしても)。

    人待てば樹は春雨に重くなり         文香
    掛け時計外しその釘に吊る薔薇
    店を出てさつきの昼の月の続き
    焼林檎ゆつくり落ち込んでゆく
    遺影めく君の真顔や我を抱き
    
新興俳句はただ新しかっただけではない。時の権力に弾圧されるのにはそれだけの理由があったはずである。逼塞の時代を生きている見開かれた目ならば、かならずそれを見届けるにちがいない、と期待したい。

   柚子の花君に目があり見開かれ

ともあれ、出版される最近の句集の句の多さには少し辟易していたので、6年間161句は読むには程よい句数だった。帯に自選句や代表句がなく、少なくとも中を読もうと思わせるのもよい。


                        冬タンポポ↑

2014年12月1日月曜日

句を成す友よ、『安井浩司俳句評林全集』・・・



 現在、安井浩司の評論を読もうとすれば、それなりの困難が伴う。平成13年頃、一度、散文の断筆断筆宣言をしたという安井浩司は、その後、その表現行為のエネルギーをほぼ膨大な俳句を作り続けることに費やしてきた。
 さらに既刊の評論集『もどき招魂』(端渓社)は絶版であった。それに『聲前一句』(端渓社・新装は沖積舎)、『海辺のアポリア』(邑書林)、新しく四番目の文集「拾遺編」が加わって一本の大冊・『安井浩司俳句評林全集』(沖積舎)が成った。
酒巻英一郎企画編集校正による仕事であると扉裏に記されている。現「LOTUS」発行人・酒巻英一郎は先に彼の師であった『大岡頌司全句集』(浦島工作舎)に関わり、金子弘保ののち、この間の安井浩司の句集のことごとく、また『安井浩司選句集』(邑書林)の刊行に尽力してきた。それにも敬意を表したい。酒巻英一郎には幾たびか、自身の三行、多行の句集の刊行を勧めたことがあるが、彼は、自らの著は、願わくば遺句集即全句集一冊で良いと取り合わない。
 ともあれ、『安井浩司俳句評林全集』、とりわけ「拾遺編」には近年の安井浩司の志向がうかがえ、俳句の風景においても、もはや遠く忘れ去られてしまったかのような俳句形式に対する精神をそこに想うことができる。
「拾遺編」の「虚空山河抄ーあえかなる私記」の最後部分を以下に引いておきたい。

  最期に申そう。いわゆる日本的知性の父母たる東洋における古代実存、古代存在論にはそれ自身大いなる虚(空)を知らねばならないのだ。虚なるものを限りなくふくらませ、はぐくんで来たもの、それがことばの智恵というものではなかったか。よきにつけ、あしきにつけ、そこを担うのが詩の宿命でもあるだろう。
 句をなす友よ、いずれにせよその荒野の軌なき道を歩む外は無いのである。




2014年11月29日土曜日

堺谷真人「大ぶりの鑰(かぎ)もて閉づる枯野かな」・・・




本日は、恒例の「豈」忘年句会・懇親会だった。遠くは関西から堀本吟も参加した。
いつもとは違って2句出し5句選である。
以下に一人一句(最高点の堺谷真人は敬意を表して掲出より別の一句)を記す。

    繙けばどれも偽史なり鱶煮られ          堺谷真人
    神の留守ワイフの紐が見つからぬ        小湊こぎく
    葱の鞭ときおり使う老婆いて            福田葉子
    古文書の熾火(おきび)を探す冬ざるる      植松七風姿
    ふゆざくら同じ話をいくたびも            鈴木純一

    置く波の
    波を洩き去る
    覚悟あり                        酒巻英一郎

    柊がよく似合ふ死は真盛り             筑紫磐井
    冬眠に付けと自分に打診せり           川名つぎお
    ゴリラのデコピン熊の肝つぶれる         多仁 竝
    ああ死骸 仰向きて蟬 そわ謀反         岩波光大
    箱庭にファンキーな雪降っている         中戸川奈津実
    ふるさとは裏葉色なりくぐらねばならぬ      高橋比呂子
    メジャーコードの追悼の唄冬薔薇         曲 風彦
    虎耳草(ユキノシタ)刀自は蓬髪耳尖る      堀本 吟
    風花や川の流れが細く淀              照井三余
    クリスマス噴火ながらにやってくる        早瀬恵子
    虚舟(むなしぶね)漕ぎつつ隊を崩さざる    大井恒行 

懇親会には、池田澄子、北川美美の両名も駆けつけた。
皆さん、よいお年をお迎え下さい。
          


  

   

2014年11月27日木曜日

中島敏之『俳句の20世紀を散歩する』・・・



本著(鬣の会刊)の解説で林桂は以下のように言う。

二十世紀は、その若い定型詩俳句の春秋に富む道行きの世紀であった。その短い不安定さをエネルギーに変え、展開し続けることでようやく表現形式となり得るような冒険的存在だったろう。表現の可能性を証明されて呼び出されたのではなく、可能性に賭けて呼び出された俳句形式の二十世紀は、試行錯誤の展開力が支えていたのだろう。そのダイナミズムは、「俳句史」にとって最も輝かしい季節となるのかも知れない。中島の『俳句の二十世紀を散歩する』は、そんなことを思わせるわくわく感がある。

本書全体は年代を区切って五章にまとめられている。愚生が同時代として、ともに歩んだ著書の章は、ほぼ「Ⅲ 1966(昭和41年)~1974(昭和49)」、「Ⅳ 1975(昭和50年)~1984(昭和50年)」、「Ⅴ 1985(昭和60年)~1996(平成8年)」である。従ってここでは、蔵書の趣味のない愚生でも、整理の網をかいくぐって棚に眠っている本も多くある。Ⅲ章の冒頭の「戦後はどう詠まれたか(楠本憲吉『戦後の俳句』」(社会思想社)は今でもことあるごとに引き出してもいる。

中島敏之は書名を「・・・・散歩する」と逍遥しているかのように韜晦させているが、それぞれの書の紹介のタイトル、例えば、Ⅰ章の「花鳥諷詠を愛し、美の結晶を十七文字で描く(『川端茅舎句集』」、「永遠の新しい俳句『白い夏野』高屋窓秋」、「俳句を詩的表現として根源的に論究(『過渡の詩』坪内稔典)」等々、各書に付されたタイトルを通覧するだけでも、自ずと俳句史をたどることになるのである。その見識に中島敏之の俳句に対する愛情が感じられる。
同人誌「鬣」に連載されていた折から、楽しみな読み物だったが、一本にまとめられて、なお一層中島敏之の厚みに触れることができた。
その中島敏之が「俳句との真の出会い。私はこの本だった」というのは『郷愁の詩人與謝蕪村』(第一書房)だという。その結語に、

 つまり芭蕉だけでなく、蕪村もいる。俳句は楕円のように二つの焦点をもつものになった。俳句がポエジーの器としても発見された。俳句がまた新しくなったのだ。 

と記している。本書に納められたのは50編、今後も「鬣」連載は続くようだから、まだ楽しみは続く。

カリン↑

2014年11月25日火曜日

辻のまねはできない―



今日はダダイスト辻潤の忌日だ。1944年11月24日に上落合のアパートで死んでいるところを発見された。今でいえば孤独死ということになろうか。それも餓死であったと伝えられている。享年60。
辻のまねはできないーこれがある時代の青年の彼に向ける軽蔑であり、讃仰であったのである」と述べたのは『ニヒルとテロル』(川島書店)の秋山清だ。その秋山清は、

    迷つて来たまんまの犬でゐる      芳哉
    雀等いちどにいんでしまつた

の句をあげて、「すでに芳哉は人間世界をニヒルしていた」と言う。
理屈はどうあれ、一時期愚生が辻潤を好きだと思っていたのは、ある本で、辻潤は冷奴が大好きだったと書かれてあったからだ。愚生は今でも冷奴が大好きで、真冬であろうと豆腐は冷奴でなければならない、と思っているほどである。豆腐尽くしの食事だったら文句は言わない(フランス料理のコースよりはるかにいい)。
そういえば、かつて今は無きコーベッブックスで永田耕衣や加藤郁乎などの見事な造本を手掛けていた渡辺一考が、神戸から上京して「ですぺら」という店をやっていると聞いていたが訪ねていない。愚生が、確か新陰流兵法転会(まろばしかい)の合宿で奈良に行った帰路にK氏と一緒に神戸の自宅を訪ね、その折り、今一番いい俳人は三橋敏雄だと語ってくれたのが渡辺一考だった。
想い出ついでに言っておくと秋山清の子息・秋山雁太郎に最初に会ったのは彼が教育社闘争を闘っていたとき(現在もなお闘争中であろうと思っているのだが)、愚生の働いていた弘栄堂書店労組結成直後に三多摩地域での労働運動に加わるようにオルグに来たことによる。もう40年前のことだ。
そして、ごく最近まで「辻潤研究」の雑誌をだしていた京大俳句会の大月健が亡くなった。


                                                   枯れハス↑

2014年11月22日土曜日

波郷「霜柱俳句は切字響きけり」・・・

                

昨日21日は、波郷忌であった。それに合わせるように依田善朗『ゆっくりと波郷を読む』(文學の森)が贈られてきた。そのタイトルをいいことにゆっくり読みたいと思っている。思い起せば、愚生が文學の森「俳句界」に居た頃、依田善朗は第13回「俳句界」評論賞(平成23年)を「横光は波郷に何を語ったか」で受賞した。選者が替わって二度目の受賞であった。その折に感じていたことは、きちんと書かれていて安心して読める評論という印象だった。もちろん本書は、その当時の印象を裏切ってはいない。
波郷を書いて10年、「あとがき」に依田善朗は以下のように記している。

 書きながら、俳句とは何か、季語とは何か、定型とは何かということを波郷とじかにお話ししてきた気がする。そして私も波郷同様、「俳句を作るといふことはとりも直さず、生きるといふことと同じ」ということを最も大事にしたいと思う。

話は横道にそれるが、多くの俳人諸氏は、波郷の下句「俳句は切字響きけり」を、俳句の特質としてよく引用されている。愚生はそのことも分からないではないが、もっと大事なこととして常に言い及んでいるのは、この句が「俳句研究」(昭和17年12月号)に「大東亜戦争一周年を迎へて」という特集の中に掲載発表されたということ。そして、久保田万太郎、前田普羅、山口誓子、大谷碧雲居、長谷川素逝、瀧春一、石塚友二、石田波郷が5句~7句を発表した中で、ただ一人、いや強いていえば久保田万太郎と二人のみが戦意昂揚の句を詠むことなく、当時の時代状況に対して、それを直接詠むことなく、とぼけた句を詠んで発表していることであった。タイトルは障りなく「一周年に當たりて」で・・・

   山行や群山氷るその一つ      波郷
   石打つや銷然と瀧涸れにけり
   十二月鎌倉の海来てみずや
   霜に呵す茂吉光太郎亦老いず
   霜柱俳句は切字響きけり

時代は新興俳句の各陣営が弾圧された直後のことである。尾崎喜八、臼田亞浪などの執筆陣は、皇紀二千六百一年の「十二月八日の朝から夜にかけての感動と、それは今思ふだに心が躍る」(亞浪)とその一年後にもその心情を句に込め、戦意発揚の作品を発表している。そうした状況下、その意味では波郷にとって少なからずの覚悟をを必要とする事態であったと想像するのである。つまり「切字は響きけり」の句は、もしかしたら和歌の美意識から切れることが、当時の俳諧における切字の眼目であったように、波郷はその時代から切れてみせることが重要だったのではないか。当時の多くの国民の抱いていた感情から切れることの意志が込められていたのではないかと思うのである。つまり「俳句は切字響きけり」は俳句を愛するゆえにいかなる事態にも左右されることなく俳句を詠み続けるというひそかな波郷自身の存在をかけた宣明だったのではなかろうか。

   十一月三日十二月八日かな      万太郎
   勝ち継ぐや師走八日はめぐり来て   普羅
   敵打ちし後寒月の夜を照らす      誓子
   茶の花やこのたゝかいに銃後なし   碧雲居
   長夜読む志士ら毛唐を斬り捨てし   素逝
   御稜威の下戦意一途に冬ふたたび  友二


                   カツラ↑

2014年11月18日火曜日

 神野紗希『山﨑十生セレクト100「自句自戒」鑑賞』[(破殻出版)・・・



昨日の小原啄葉と同様、3.11以後を詠み、書き続けて句集『原発忌』(破殻出版)もある山﨑十生の代表句100句を鑑賞して見せるという離れ業を神野紗希が試みている。
もちろん句集『恋句』(破殻出版)さえもある十生だから、すこし喩は悪いが小原啄葉が現実の戦場詠の俳人なら、山﨑十生はさしずめ〈震災想望俳句〉の貴重なる実践者ということになろうか。
それにしても山﨑十生はさまざまな企画と試みをするものである。神野紗希に自句を鑑賞させて、それを自戒にする諧謔に浸るとは、マゾヒズムの歓喜かも知れない。
さらに神野紗希にはすでに『子規に学ぶ俳句365日』(草思社)、『虚子に学ぶ俳句365日』(草思社)もあり、これで、山﨑十生も子規・虚子に並び立つ俳人として、その名を後世にとどめることができるのではなかろうか。
ともあれ、やっかみは別として、愚生好みの十生「車座になつて銀河をかなしめり」は、以下のように鑑賞されている。

  「かなしむ」という動詞には、「愛しむ」すなわちいとしく思う、素晴らしく思うとういう意味と、「悲しむ」すなわち悲しく思うという意味がある。この句はあえて漢字表記を避け、どちらとも取れるようにしてある。そのことで、複雑な感情が一句にこもった。車座は、同じ時間を共に過ごしていることを強く感じるフォーメーションだ。車座の青春の今も、天体の時間の運行の中ではほんの一瞬に過ぎないことを「かなし」んでいるのだろう。
   
神野紗希は、その「あとがき」に、

十生俳句は、ときに痛々しいまでの道化に徹しながら、常識に泥む我々の心を揺り動かさんと挑んでくる。他の作家に比べて、山﨑十生の百句と向き合うのには読者のエネルギ―がいる。それだけ、一句一句に彼の精神が宿り、漲っているということだ。私がそうしたように、たくさんの読者に、十生俳句と格闘してもらいたい。

と記している。山﨑十生、もって銘すべきか。

気になるもう一句を挙げておくと、十生「目の上のたんこぶ大事心太」(『精霊術入門』紫の会、1986年刊)の句は、後に攝津幸彦の「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」(『陸々集』弘栄堂書店、1992年)の句の原型、発想を促がした句ではなかろうかとも思うのである。句の構造も近い。
当時をふり返って思うと、「豈」の31日の会や、攝津幸彦と住居地も近かった山﨑十死生(当時の俳号)は、句評を交わしたり、何かの折によく会っていたように思うからである。しかも十生と幸彦は同齢であった。


小原啄葉「樹皮ときに新酒の匂ひ剥がし食ぶ」・・・



小原啄葉第十句集『無辜の民』(角川学芸出版)は、全編が人の生そのものを問い、飽くことなき追求を手ばなすことのない句業といえよう。章題は「大震災」「戦争(回想)」「いのちたふとし」の三章のみ。そして、つまり、戦争の記憶と震災の記憶につらなっている。同時に最終章「いのちたふとし」に繋がっているのだ。
掲出の句「樹皮ときに」剥がし食べるのは、戦時のことである。新酒の匂いなどはなからしてはいない。それは何事かを願わずにはいられない渇望である。
小原啄葉は大正十年五月生まれだから、93歳。「大正九年以来我あり雲に鳥」の三橋敏雄、また金子兜太もそうだが、この世代の俳人は戦争体験を手ばなすことなく、老いてさらにこだわりを深く持ち続け、生ある限り、それゆえにこそ人の未来を招きいれようとしている。

     黒焦げの半裸これみな無辜の民        啄葉
     雪の果通夜なき葬りばかりなる
     鳥帰る難民に似て非なる民
     をみなへし戦・津波に遺骨なし
     寒梅や生涯死者に仕へ生く
     家畜みな野生となりし野分かな
     戸籍のみ村とはなりぬ桃の村
     建国日永久に帰れぬ村なるや
     蛞蝓へそこは棲めぬと詫びたまへ
     夕雲雀降りてくるためまた揚がる



2014年11月12日水曜日

今泉康弘「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題・・・・



「円錐」第63号の今泉康弘の批評「寺山修司と『差別語』-その書き変えの問題」は、避けては通れない現在の表現者の問題を論じている。自らの立ち位置を明確にして論じる姿勢には今泉康弘の書くことへの覚悟を感じさせる内容である。「差別語」の書き変えについての今泉の見解が披歴されている。それは、具体的に入手しにくい原資料にあたりながら、すべての書き変えをあきらかにする道程でもある。例えば、寺山修司没後に出版された『寺山修司俳句全集』(新書館)でも、この全集が価値ある企画であり、仕事だとみとめつつも、著作権継承者の了解を得た上で、という断わりがないので、編集部が勝手に書き変えたということになると指摘している。『寺山修司の俳句入門)(2006年、光文社文庫)については、これには巻末に「本文中、一部考慮すべき表現がありますが、著者が故人のため、また作品が書かれた時代的背景に鑑み、概ねそのままとしました」と記されている。つまり「概ねそのまま」ということは一部を書き変えたということだ、と指摘する。もちろん角川文庫に収録された文庫本は、著作権継承者の了解を得て、「差別語」を書き変えている。これらの事実を踏まえて、今泉康弘は、

ハッキリ言ってしまうと『全集』も、『入門』も、俳句についての寺山の文章を読むためのテキストとしては信用できないものだ。   

と言う。さらに、

作者が故人となっているものを、後世の人が書き変えてはならない、とぼくは思う。まず、ある語が現在は差別語であるとしても、その執筆当時には決して差別のために使われたものではない、という場合がある。それをひとしなみに「差別」であるとするのは短絡的だろう。また、仮にある文章・詩歌の中に差別的な表現があったとしても、その語はそのまま残すべきである。その表現から後世の者は、ある時代に差別語がどのように使われていたかを知ることになる。その手がかりを消すことは、歴史から差別を消し去り、「なかったこと」にしてしまうのである。なお、寺山は挑発的に「差別語」を使うことがあるが、それは決して侮蔑や悪意のためではなくて、偽善に満ちた社会秩序を批判するためである。これが最も重要なのだが、もし作者以外の人間が作品の言葉を書き変えてもよいということになったら、作者という存在意義は消滅する。

もちろん、今泉康弘は次のように言うことを忘れていない。

 念のために言っておくと、ぼくは現在の書き手に対して、「差別語」を自由にどんどん使え、と言いたいわけでは全くない。何よりも、差別という行為は絶対許されてはならないことである。どんな言葉であっても、それを使うことで傷つく人がいないか、どうか、慎重に検討しなくてはならない。












2014年11月10日月曜日

磯貝碧蹄館「白桃のお手玉笑い上戸好し」・・・・



「白桃のお手玉笑い上戸好し」の句に「糸大八句集『白桃』を祝す」と前書きがある。
句集『白桃』(糸大八句集刊行委員会)は糸大八の『青鱗集』『蛮朱』に続く第三句集であったが、闘病生活の続く糸大八を励ます意味もあって「円錐」の仲間たちが糸大八刊行委員会を組織して句集を出版した。つまり碧蹄館主宰「握手」の同人でもあった糸大八の句集刊行を祝ってのものだ。その糸大八も今は冥界の人。
今回、朝吹英和の手によって『磯貝碧蹄館 遺句集』が出版された。朝吹英和は「握手」の編集長だった人、碧蹄館の第10句集『未哭微笑』以後、平成18年から「握手」終刊の平成24年までの句から334句を選び出している。
碧蹄館は大正13年生まれ。17歳で川柳を始め、19歳で感動主義の萩原籮月、内田南草に師事。28歳で中村草田男に師事。のちに句と書の一体化を志し金子鴎亭に指導を受けた。50歳で「握手」を創刊した。昨年3月14日に逝去。享年89。
碧蹄館の句集お祝いの会などでは、池袋・ホテルメトロポリタンがよく使われたという記憶が愚生にはある。碧蹄館はいつも意気盛んというか、いつも情熱的であった。一時、病に倒れたのちもそれは変わらなかった。出合いは、たぶん糸大八の配慮で、若造だった愚生にも声がかかったのだと思う。
シンプルな遺句集だが、それが良い。

       胸に棲む獅子の雌伏や初御空       碧蹄館
           朝吹英和氏の『時空のクオリア』を祝す
       冬陽炎繭の時空に楽起す
       死者へ炊く飯は雪より白く炊く
       梅雨の電柱老の左手で叩いてやる
       青天六日天に塵なく筆洗ふ
       戦争の中に消えざる臼と杵
       鞦韆は首を切る音傾ぐ空
       野良犬にたつぷりとある春の水 



2014年11月9日日曜日

森泉理文「山の神林道水源涵養保安林根雪なり」・・・



島田牙城は「理文さんは終生の友なのである」と言う。だからというわけではないが、実にいい仲間を持っているのだなぁ・・・。そう思わせる句集である。
森泉理文「あとがき」には「たいへん申し訳ないことに、この句集を読んでいただくために送ることになっている。どこか開いていただければ嬉しいです。でも無理はしないでください」とある。
森泉理文句集『春風』(邑書林)は、どうやら「里叢書」第一号のつもりらしい。ここからは愚生の勝手な想像だが、「里」の仲間たちは島田牙城をほんのわずかでも助けたいと、島田牙城に好きな仕事をさせようとしているのであろう。
愚生だって牙城には、なかなかお世話になっている。例えば、もう30年は以前のこと、「俳句とエッセイ」(牧羊社)という雑誌に「飯田龍太論」を書かせてもらった。それはどうやらお祝いのための飯田龍太特集だったようだが、それに相応しくない批評文を、馘を覚悟で掲載してくれたらしい。いわゆる俳壇では飯田龍太の時代が喧伝され始めたころのことだったように思う。そしてそれは愚生が商業雑誌に俳人論を書かせてもらった最初だった。
彼が邑書林を興してからも様々な企画があったが愚生の非力ゆえに断ったこともある。にも拘らず、攝津幸彦選集、安井浩司選集、「豈」の発売元なども二つ返事で引き受けてもらっている。
もちろん、宝くじが当たったら、第一に彼のところから愚生の駄文集を出したいというのは本当のことだ。
『春風』にはたしかに「〈俳〉が満ちてゐる」。でも、挙げるのは愚生好みの句にとどめる。

      黄花石楠花天上の花と思ふ         理文
      雪嶺に立ち雪嶺のぐるりかな
      雨女衣新調雪女
      道なくてどこへも行ける氷湖
      能登島に須曾蝦夷穴(すそえぞあな)古墳山笑ふ
      彼岸中日登り道あり続きをり
      金泥といふにはあらず黄砂降る 
      

                 桜紅葉↑
        

2014年11月8日土曜日

「チューリッヒ美術館展ー印象派からシュルレアリスムまで」・・・



芸術の秋、さすがにいたるところ、美術館などでは、人気のものが目白押しだが、大どころはどこも混んでいそうで、よほどでないと出かける気にはならない(年のせいかもしれない)。愚生などには平日という仕儀になるのだが、それでも・・である。
というわけで、むしろこじんまりして、余り人のこない美術館の方が好みなのだが、そうとばかりは問屋も卸してくれない。
散歩がてらに立ち寄るには近くの府中市美術館などは広い公園の中にあってちょうどいい。美術館内にある図書室は無料で美術雑誌や画集も眺めることができる。側には喫茶店もある。
府中市制60周年記念でミレー展をやっていたのだが、いつでも行けると思っていたらあっという間に会期が終わってしまっていた、という次第。
さすがに新国立美術館の「チューリッヒ美術館展」は平日でもそれなりの混み具合だったので、土日はやはり近づかない方がよさそうである。
とりあえずはムンク、モネ、マティス、シャガール、セザンヌ、ダリ、クレー、ピカソ、三菱美術館に来ていたヴァロットン、美術館地元のスイスのセガンティーニ、ジャコメッテイなど、それなりに堪能した。やはり大物の画家は持っているものが違うようだが、ピカソは群を抜いていた。もちろん館地元のジャコメッティは点数も多く出品されていて満足・・・。


     ロダンの首泰山木は花得たり       角川源義
     ピカソ見る人を見て居り霧なき日     中川宋淵
     ボナールの海男はいつも毛糸着て    坂口涯子

                   サザンカ↑

2014年11月3日月曜日

高橋修宏詩集『MOTHER HOTEL』・・・



まず、愚生の駄句を献じよう。

    蘭月の仔どもは爪を剪りそろえ      恒行

高橋修宏(たかはし・のぶひろ)は「豈」同人にして、この度6冊目の詩集を上梓した。その書名が『MOTHER HOTEL』(草子舎)。先に彼が上梓した句集『虚器』、この句集は昨年上梓された句集のなかでは、もっとも質の高い句集の一つであったと思われる。ただ各総合俳誌出版社のアンケートか何かで「今年の収穫」、ベストテンなどではほとんど見かけなかったように思う。この事実は俳句のために憂いてもよい事態であろう。
彼が句集を上梓するたびに愚生が期待してしまうのは、必ず前句集から、句が深みをまして来るからである。『虚器』は『蜜楼』『夷狄』につづく第3句集であった。評論集に『真昼の花火』がすでにある。
彼の今回の詩集を読みこなすには愚生には荷が重いが、それでも以下に書き写す集中の「黙契」は、句集『虚器』における彼の表現意識の根底に触れているように思うのである。

           黙契
  この国の
  蘭月の仔どもたちは、
  まず爪を、そして髪を
  きれいに剪りそろえられなければならない
  下着はすべて脱がされなければならない
  裸体の隅々まで洗い浄められなければならない
  ときおり黄金の斧が振りおろされなければならない
  そして下着という下着は、ただちに
  一本の糸へと戻されなければならない
  戻された糸からは、
  一枚の布が織り上げられなければならない
  (炎昼の眩い光に晒された、仔どもたちの声の谺)
  形代のような列島をおおう巨大な白布からは、
  幾千枚、幾万枚もの旗が裁たれなければならない
  それぞれの旗は、夥しい血に染まり、
  夥しい汗や反吐や体液を吸い取ったのち、
  ふたたび母なる海の水によって、
  洗い浄められなければならない
  くりかえし洗い浄められた旗は、
  来たるべき客人の舟のために振られなければならない
  やがて旗という旗が襤褸になり果てるまで、
  この国の王という王が絶え果てるまで、
  くりかえし振られつづけられなければならない
  

高橋修宏、1955年生まれ。詩誌「草」編集発行人。誌と批評誌「大マゼラン」同人。俳誌「豈」、「風来」同人。   

                                             ピラカンサス↑