2014年2月7日金曜日

総勢16名、平均年齢はおそらく30歳強・・・


俳句同人誌「豈」創刊号(1980年6月)の同人の陣容(総勢16名、平均年齢30歳強)である。
その折、攝津幸彦は編集後記にSの署名で、以下の様に記している。

   思えば昨年八月、立岡、大本、しょうり達と淡路島に一泊して遊んだ時、何か義務感の ようなものにとらわれて、「豈」を出そうと決意したのだった。その義務感のようなものは一 年を経ようとしている今もある。
  つまりは、私自身の問題として、このまま俳句を書き続けるか、あるいは俳句を書くことを やめるか、何か明確な形で落し前をつけたいという気持ちがあるのである。おそらく同人諸 氏の幾人かも、同じ気持ちでいると思う。私は「豈」を通じ、いかなる工夫で俳句を書き続  けていくのか、あるいは、俳句を断念するのか、その有様をじっくり見てみたいのである。  いづれにしろ「豈」が近い将来、終刊を宣言する頃に、我々の胸に、はっきりとした決意が 表われているはずである。

こうして、創刊号から11号(1989年6月)までの表紙左下には、「FIRST OR LAST」~「ELEVENTH OR LAST」のように「OR LAST」の文字が入っていた。いつも終刊号の覚悟だったのだ(思えば健気というべきか)。しかし、何を間違ったか、攝津死後も継承され、遅速を愛しながら、曲折はあったものの55号まで来てしまった。同人が百人になったら廃刊しよう、と冗談まじりに語られたこともある。しかし、こと志と違って、いまや、30歳だった同人も(来年で創刊35周年・・)高齢化の難は免れがたく、老兵のみになって自然消滅の時間のほうが早くきてしまいそうなのである。亡びることが分かっていてもそれに殉じるというのもまた一興かも知れない。
とはいえ、どのような小さな場でも、それを必要としている人がいれば、それは存続する。今は、秘かにそのことに賭けているのである。
愚生の手元に残っている創刊号は落丁本で、完本ではない。あるとき落丁部分の作品を手書きで補充してあるものだ。評論は大本義幸「同時代を探る(1)中谷寛章覚書」、大井恒行「いかなる声を」、中烏健二「私を襲うのは」、田中三津矢「ピエロのために」。以下一句づつ引いておこう。

      雪がふりはじめる象の死と話す       中烏健二
      野菊あり静かにからだ入れかえる      攝津幸彦
      海ひろがる乳首の尖へ黒い蝶        城貴代美
      もう狂へないのだと鵙が来ていふ      白木 忠
      直江津のドアの一つが姉に肖て       小海四海夫
      群れてめじろ木にもろもろの晴れ間つくる  しょうり大
      遠野市というひとすじの静脈を過ぎる    西川徹郎
      山羊の背に詩を書き山羊を射ち殺す    山下正雄
      裏庭にしほみづがあり姉飼ふ髑髏     馬場善樹
      仮の世のあるいは猫もみごもりぬ      田中三津矢
      血しぶきをあげて静かに春の家       野田裕三
      日の丸ああ〈トマトうさぎ〉に竹刺せば    立岡正幸
      
      夕凪集今朝(けさ)君の名は誰か問ふ   長岡裕一郎(回文句)
      ふと枯れた花の幹咲け不思議な冬   

      いるだろう頭上を水は十五階より流れて  大本義幸
      石か木か髪にくくられふたりいる       大井恒行





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