2014年3月8日土曜日

ハイレッド・センター:直接行動の軌跡展・・・


先日、渋谷に出たついでに渋谷区立松濤美術館で開催されている「ハイレッド・センター:直接行動の軌跡展」(3月15日まで、60歳以上、無料)を観た。
ハイレッド・センターとは、高松次郎・赤瀬川原平・中西夏之の頭文字を英訳して並べた名称。「匿名の行動」のために1963年に結成されたグループだ。愚生にとっては、多くが追体験の代物だが、赤瀬川原平の千円札事件が裁判沙汰になったのは覚えている。
その渦中に、愚生が編集人を務めるようになってから、「豈」の表紙絵(デカルコマニー)をずっとお願いしてきた風倉匠がいた。
今回の展示のなかの映像なかで、若き日の風倉匠がふんだんに登場する。
その風倉匠は2007年11月13日死去。死の翌日の新聞で訃報を知った。
朝日新聞の訃報記事には「13日、肺がんで死去、71歳。(かざくら・しょう=前衛芸術家)。大分県出身。60年代に注目された前衛芸術集団『ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ』に参加。風船やピアノを使った過激なパフォーマンスで知られた」とあった。
風倉匠と親しくしてもらったのは彼の親友の古沢栲(たく)こと首くくり栲象に紹介されたからだ。
坪内稔典のやっていた「現代俳句」の第何集かで「俳句の前線」特集で愚生が紹介されたときに、愚生についての小文を書いてもらったのも懐かしい。彼の没後も奥様の好意でずっと風倉匠の絵を「豈」の表紙に使わせていただいている。
彼が60歳を過ぎた頃、銀座で個展が開かれた折りだったと思うが、地元の大分美術館が常設に風倉匠を加えたり、この歳になって初めて絵で飯が食えるようになるとは思わなかったよ、とにこやかに話されたのを覚えている。
風倉匠には多くの伝説があるようだが、愚生の覚えているのは、敗戦直後、子どもだった風倉匠は不発弾の信管をたたき、その爆発によって右人差し指を無くしてしまうが、その指の付け根の傷跡から、爆発時に入り込んだであろう種子よって、小さな草が生えて、やがて小さな花が咲いたというのだ。


その「風倉匠、誰だ、彼は」という追悼文を集めた『時計の振り子、風倉匠』(書肆山田刊)ではナムジュン・パイクが「世界でもっとも無名な有名人」と書いていた。本書に使われている風倉匠のすべて写真は荒木経惟のものである。
いつも、にこやかだった風倉匠は実年齢よりはるかに若く見えていたが、愚生よりちょうど一回り年長だった。もし、存命ならば喜寿だ。
俳句もけっこう作っていて、地元の由布院で風倉匠回顧展が開催されたときには絵と俳句のノートが陳列されたと聞いた。許されるなら、一度「豈」で一挙に50句くらいは掲載したいものだ。



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