2014年4月12日土曜日

筑紫磐井の純真・・・

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筑紫磐井句集『我が時代ー二〇〇四~二〇一三〈第一部・第二部〉』(実業公報社)は、いかにも時代をリアルタイムに生きた筑紫磐井の在り様を留めている。
少し長い「まえがき」と少し長い「あとがき」をめくれば、その真意がほの見える。
あたかも「憂鬱な時代には、ほの明かりのような思想がふさわしい」といい、

  
  我々が迎えるたそがれの時代にはたそがれがふさわしい思想・思念があるべきだ。先ず我々   
 自身が変質していることを知らなければならない。自分が変質していることを知れば―すなわ    
 ち我々がもはや青年でもないことを知れば―我々にふさわしい、なすべきことが見えてくる。

あるいは、

  一句一句を詠むだけでなく、句集を企画し、あるいは事実を記録し、編集し、刊行することを 
 全体をもって「表現」と言うべきなのではないか。自由な表現が「権利」であるとすれば、久しくこ 
 のことを忘れていたような気がする。あてがわれた頁数のなかに三百句をはめ込むことばかり
 が文学ではあるまい。
   句集として先例のないものになったすれば、それだけで作者としては十分満足である。

かく初心を言挙げする心性は、およそ純真以外の何物でもなかろう。失われない初々しさこそは詩歌の根本原理である。永田耕衣に「少年や六十年後の春の如し」の句があるが、この句を地で行っているようなもの。
句集の一部・二部のつなぎに、筑紫磐井が長年の病であった心臓を手術したおりの地霊(ゲニウス・ロキ)を配したのも、その瞬間に、彼が本質的な実存を垣間見たからではないのか。
それを、愚生はうまく説明できないので、邪道を承知で、レヴィナスの次の言を長くなるが引用してみたい。

   主体が、もはや何かを捉えるいかなる可能性も持つことのない、そのような死という状況か
  ら、他者とともにある実存のもうひとつの特徴を引き出すことも可能である。どうやっても捉え  
  られることにのないもの、それは未来である。未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に  
  訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものであ
  る。ベルグソンからサルトルに到るまであらゆる理論によって、時間の本質として広く認めら
  れてきた、未来の先取り[予測]、未来の投映は、未来というかたちをとった現在に過ぎず、真 
  正の未来ではないのだ。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われ
  われを捕えるものなのである。未来とは、他者なのだ。未来との関係、それは他者との関係そ 
  のものである。単独の主体における時間について語ること、純粋に個人的な持続について語 
  ることは、われわれのは不可能であるように思われる。(『時間と他者』原田佳彦訳・法政大学    
   出版局刊)

ともあれ、果敢なる筑紫磐井の純真を愛でたいと思う。

   
    阿部定にしぐれ花やぐ昭和かな         磐井 
 
    時代すでに虚子を置き去るそれもよし
    愛人やほのかにうすら寒き存在(もの) 
    激しき恋の残りの生は老い・腑抜け  
    余生とはうかつにすごす末期かな
    この街の不思議な時計すぐ遅る
    
    師系とは身分のちがふ恋に似し
    
    
    脱ぎたくて脱ぐや水着もその他も
    沸点も氷点もある温度計 
     
    戦前の、オリンピックが湧いてゐる

                  スズラン↓

   

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