2014年4月15日火曜日

伊丹三樹彦「ガンガの水汲んだばかりの 壺に初日」・・・


伊丹三樹彦写俳集⑯『ガンガの沐浴』(写俳新書1 青群俳句会)の「あとがき」に、三樹彦は言う。

  『ガンガの沐浴』と題したのは、何度目かの写俳旅行の一頂点を成す場としてである。その群  
 像写真で私は写俳開眼が出来たような気がする。

「写俳」はたぶん伊丹三樹彦の造語であろうが、彼が「写俳」をやり始めたころは認知度も低く、今回の写俳集もそうだが、モノクロの写真は、すべてフィルムが用いられていた。今はデジカメの普及で手軽に、安価に写真を楽しむことができるようになって、「写真俳句」の愛好家も多く、ブームでもあり、コンテストもたくさん行われているようだ。

今回の写真はその初期の作品のコンパクトな意匠での再刊ということになる。「今回の写真は総てトリミングなし。撮影の眼心指(がんしんし)は本能に従ったままだ」(三樹彦)という。

三樹彦は今年94歳になった。数年前に病で倒れたが、いまや完全復活の感じで喜ばしい。戦後、日野草城を継いで、主宰となった三樹彦は第二次「青弦」で「リゴリズム」「リアリズム」「リリシズム」の「三り主義」を提唱し、定型を生かす、季語を超える、現代語を働かす、などとして「分かち書き俳句」を推進した。愚生の年代にとっては、まさにその現代俳句を領導した坪内稔典、大本義幸、攝津幸彦、澤好摩、花谷清、伊丹啓子らを擁した俳句同人誌「日時計」の出自をもたらした結社だった。
三樹彦の実娘・伊丹啓子に誘われて攝津幸彦(本当は映画監督になりたかった)は俳句をやりはじめ「あばんせ」という雑誌を啓子と出した。1968年、もう46年も前のことだ。その「あばんせ」2号に攝津幸彦は次のように書いていた。

  
   あらゆる芸術は、その形式の普遍と安定に伴って時代の社会的事情を拒否しそれが生まれ
  た時代環境の永続性の観念のもとに大衆に定着しようとするものであるからだ。つまり「僕ら」
  が古めかしい俳句に反抗しその変革を求めるということは「僕ら」が生きつづけなければなら
  ぬ激烈で過酷な時代と社会に反抗することに他ならない。

実は、この志をこそ、49歳で亡くなるまで攝津幸彦は胸中にかかえていた。だからこそ、「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」だったのだ。

 
話は少しそれてしまったが、2、3年ほど前の現代俳句協会総会後の懇親会で、病より復活した伊丹三樹彦が金子兜太と戦友のごとく満面の笑みで抱き合った光景を、今、思い出す。この小さな写俳集の刊行も三樹彦を励ますに違いない。

    漕ぎ寄るレイ売り 初日以前の手燭捧げ     三樹彦    
    タントラを選る 眼光の武二の夜
    カレー捏ねる正面 タントラ人体図

                  ジュウニヒトエ↓

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