2014年5月28日水曜日

もうひとりの子規が現れはしないか・・・


句歌詩帖「草藏」第75号(2014年五・六月、草人舎)は、綴込みで「子規句集」の興味ある特集をしている。名付けて「仮綴・第一輯『子規句集』(虚子選外)-自明治十八年 至明治二十七年」(佐々木六戈選)。どうやら一集では終わらず、第四集まで続くらしい。楽しみである。
第一輯においては約120句が選句されているが、序とも言える佐々木六戈「もうひとりの子規」には以下のように記されている。

   有名な話であるが、岩波文庫の『子規句集』に虚子は〈鶏頭の十四五本もありぬべし〉を採らなかった。何故なのか。わたしは虚子選の頑迷を撃つために次のことをするのではない。わたしは虚子の序文を読めば分かることだが、、虚子の選句は信頼に足るものである。にも拘らず、わたしも改造社版『子規全集』の一、二、三巻を底本にして、もうひとつの『子規句集』を編むことにする。
 「虚子の採らなかった句全部を、もう一度検討し直す必要があろう」(玉城徹『子規ー活動する精神』)の声に導かれて、ここからもうひとりの子規が現れはしないか。 

また、編集後記にあたる「草愚勘弁」には、

  追記すると、選句するにあたって、私は改造社版の『子規全集』はもとより、岩波文庫『子規句集』に首っ引きで臨んだが、かとうさき子と青木空知の両名が選句した「子規百句(仮)(虚子選外)も参照した。虚子が選ばず、私が選んだ句の両名の選句眼を信じた訳である。それはあたかも、子規の二万句の大海原に浮んだブイの役割を果たしたのである。

子規は最晩年、病状の悪化にもかかわらず、俳句もさることながら、短歌も旺盛に作っている。それは寒川鼠骨の編んだ岩波文庫『子規歌集』にまとめられている。あるいは、柴田宵曲『正岡子規』にも子規居士の辞世「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」とともに長歌として「旱して木はしをるれ、待つ久に雨こそ降れ、我が思ふおほき聖、世に出でてわをし救はず、雨は降れども」と記されていることで伺い知れる。激痛のなかで、自分の体にこんな痛みが襲うとはまったく考えもしなっかったと嘆きながら、病状六尺などを書いて、活字なって、日々載ることを楽しみしとし、かつ生きがいにした子規であった。言えば、生きる唯一の激しい希望だった。

                                                    ムギ↑

2014年5月25日日曜日

澤好摩「燃え崩る榾あり人に喪志あり」・・・


今日は、第64回文化庁芸術選奨文部科学大臣賞受賞記念「澤好摩の受賞を祝う会」である。
受賞作は句集『光源』(書肆麒麟)・2013年)、澤好摩の第4句集である。
同賞は70歳未満の授賞規定があるそうだから、ぎりぎりの69歳の授賞であった。2日前の22日が誕生日で70歳になったばかり。坪内稔典は先に盛大なる古稀のお祝い会を行ったそうだが、澤好摩にとっては、受賞を祝う会がすなわち古稀のお祝い会になるはずである。
澤好摩はかつて坪内稔典と同志的連帯で結ばれていた。彼らの出していた同人誌「日時計」の「日時計叢書第一集」こそは、澤好摩第一句集『最後の走者』(日時計書房・1969年刊)である(摂津幸彦の『姉にアネモネ』50句も同叢書である)。限定300部300句、序文は、大学の先生・石田穣二、解説は坪内稔典「沢好摩ノート」。第一句集の題ともなった「木枯しの橋を最後の走者過ぐ」の句について、坪内稔典は次のように記している。

  〈最後の走者〉という言葉は様々な連想を呼ぶ。俳句に限っても、石田波郷の弔鐘の弁を思い出させる。この種の言葉は、〈書く〉ことの個人的な意味を、衆の中へ、もっといえば体制的ムード、観念論の中へ拡散させてしまう。
 〈書く〉ことの意味は、言葉のこの種の連想性とは全く無縁である。それにもかかわらず沢がこの句をもって句集の題名とし、一連の作品を収めたことは、単なる過去の記念というより僕はそれを、今日の沢が自ら対峙するものとしてこれらを集中に措定したのだと考えたい。沢の今日的な志向は、〈意味するもの〉としての言葉から、〈意味されるもの〉としての言葉へむいているし、とりわけ、僕らの詩がストレートに〈郷愁〉や〈寂寥〉や〈永遠〉へ到る時代はとっくに過ぎ去ったことを自認してもいるのだ。

そして、あらためて思う。はたしてその時代はとっくに過ぎ去ってしまっていたのか、と。〈郷愁〉や〈寂寥〉や〈永遠〉の渦中にいまなおもがき続けているのではないかと。あえていえば日本的抒情のその先はいまだに若き日の愚生らの先に壁として立ちはだかり続けているのではないかと。ならば、志はまだ捨て去るには早く、その希望を捨てたくはないと・・・「喪志」とはもともとすでに喪われてしまった志のことにほかならない。いつまでもその喪志を、口惜しみとともに掘り起こしてやまないからこそ、たぶん澤好摩も俳句を書き続けているにちがいない。
思えば「最後の走者」を見送ってから45年が経ったのだ。手元に残された、その見返しには「睡い馬繋ぎ 河畔で膨れる樹 好摩」と若き日の署名がある。

                

愚生が山口を出奔し、京都から流れて、東京に着いた21歳のころ、「万緑」、「風」などのいくつかの句会を訪ね、いささか倦んでいた折り、「俳句研究」社に電話をして句会の紹介をお願いした。そのとき電話口で、十二、三人の句会があるが、来てもいいよ、と言われ、訪ねたのが代々木上原の「俳句評論」の句会だった。その最初の日に声をかけてもらい近くの「俳句評論」発行所についていった。それが、澤好摩との最初の出会いであり、同世代横山康夫ともその時が初対面だった。以後、ついに「俳句評論」に加わることはなかったものの、高柳重信はじめ、三橋敏雄、三橋孝子、三谷昭、折笠美秋、寺田澄史、中村苑子など、あげればきりがない多くの俳人の知遇を得たことは、今日までの恩義である。
その俳恩浅くない澤好摩のお祝いの会となれば、なにはおいても馳せ参じなければならないのだが、あろうことか、愚生は急きょ三日前に、鼻のポリープを手術することになって、簡単な手術だったとはいえ、欠席の止む無きにいたった。ならば、せめてこのブログで『光源』を取り上げようと思った次第なのである。

    ものかげの永き授乳や日本海        好摩『印象』
    ピストルを極彩色の天へ撃つ
    祈りとは海を曇らす吐息だらう
    苦艾(にがよもぎ)瀧は後退しつつあり      『風影』
    日と月と蝶さへ沈み真葛原            『光源』
        長岡裕一郎急逝
    影まで酔ひ月夜の駅の階に消ゆ
    敏雄忌のけふの畳を掃きにけり
    藁塚の芯乾かざる六林男の忌
    梅と桜の端境にあり美秋の忌
    野ざらしはまた夢ざらし無蓋貨車
    凭るるは柱がよけれ妹よ 

                                                テイカカズラ↑

2014年5月24日土曜日

高橋龍「郵便番号簿季題地名一覧」・・・


                 

それにしても、高橋龍という人は色々なことを考えつく人だ。
約60ページほどの冊子の表紙には「龍年纂愛読者御礼配り 郵便番号簿季題地名一覧 九有似山洞・編」とのみある。高橋龍は毎年「龍年纂」という冊子を発行していたが、十冊をだしたところで、老化も甚だしいと言い、「龍年纂」の発行を止め、これまでの読者御礼にと配布された冊子が「郵便番号簿季題地名一覧」である(平成21年12月1日発行)。遊び心もここまでくると並大抵の努力ではない。その「口上」には、

  季題地名というのは、わたしが勝手に付けた名前で、公称ではない。この季に重なる地名に新たなる名前を付けるにあたり、それを季語地名としなかったについては、わたしの季語と季題についての認識の違いがあるからである。季語は季物や季節現象を主として季感としてとらえたことばである。それに対して季題は、その季感を超えて、季の発生する風土の歴史性や名前(名詞)ということばの母の有する時間構造をも示す。季題観念は古く、すでに閉ざされた言語空間のように思われているが、季題はいまもなお未来に開かれている。わたしは例句を選ぶにあたり、高屋窓秋、富沢赤黄男、渡辺白泉、西東三鬼など新興俳句を推進した人たち、その系譜につらなる、高柳重信、三橋敏雄、鈴木六林男、佐藤鬼房などの作品も選んだ。この人たちの作品に季を現わす言葉があるのでそれを有季俳句に入れてしまうと、何か違和をおぼえるが、同じ言葉を季題と見るならばそのようなさしさわりは生じない。むしろ季題はひろがりをみせ、新しみを加えている。この季題の更新性こそが季題の伝統であり、その伝統を革新俳人といわれる人たちが受け継いでいるのだ。季題は古く季語は新しいのではなく、季語はせまく、季題はひろいのである。季語と季題。どちらも季のことばであるが、季語は季に重き置き、季題はことばに重きを置くのである。

長い引用になってしまったが、ほんとうは、この「口上」をまるまる転載したいくらいなのである。
ともあれ、北は北海道から南は九州まで(沖縄は風土が違うので除外したという)、その季題地名を数か所、さらに引用してその一部分を以下に紹介しておくことにする。

     春之部
  新年
 

〒九七〇ー八〇五三 福島県いわき市平正月
正月
   
   正月やはしらわさびに酒の味       小沢碧童
   正月の河を見る手を帯へさし       高梨花人

  
〒八一二ー〇八七二 福岡県福岡市博多区
  

 バスを待ち大路の春をうたがはず    石田波郷

    夏之部
〒〇二七ー〇〇七二 岩手県宮古市五月町・他
五月(さつき・ごがつ)

  あまたまに三日月拝む五月かな       去来
  手をひたす五月の入江男泣く       三橋孝子

〒九八二ー〇八一一 群馬県伊勢崎市若葉町・他
若葉
  若葉道赤き絵具を拾ふかな       高柳重信

    秋之部
〒六八九ー三三三四 鳥取県西伯郡大山町稲光・他 
稲光
   いなびかり北よりすれば北を見る  橋本多佳子

〒三〇九ー一四五八 茨城県桜川市稲・他

   俺のあとからしばるもの来て稲縛る  阿部鬼九男

   冬之部
〒六七〇ー〇九二一 兵庫県姫路市綿
綿
   海坊主綿屋の奥に立つてゐた    渡辺白泉

〒六一二ー〇八七五 京都府京都市伏見区深草枯木
枯木
   枯木宿まをとこ結びをそはりぬ    加藤郁乎

   追補
〒九二九ー一一七五 石川県かほく市秋浜
秋の浜
    一心に敬礼をして秋の浜      高橋 龍


                 ザクロの花↑

2014年5月21日水曜日

前田霧人「新歳時記通信」第8号・・


「新歳時記通信」の編集発行人は前田霧人。数年前に労作『鳳作の季節』(沖積舎刊)を上梓して、篠原鳳作についての文献を精緻に探索し、鳳作の生涯を描き出した筆力には定評がある。鳳作研究の第一人者といっても過言ではなかろう。
「しんしんと肺碧きまで海のたび」鳳作(雲彦時代の句)の無季句に出合って、鳳作についての著作のみならず、季語(新歳時記通信では季題)をめぐる探索を自力・独力で「新歳時記通信」として、発行し続けている。
今、第八号も、彼にとっては当然の射程にある仕事なのだろうが、一年をかけた歳時記における季題の研究はA5版195ページ、その膂力、持続力と熱心さに胸打たれる思いだ。
第八号の巻頭は「鳳作と短歌」で、篠原鳳作の書いた短歌作品を調査して掲載している貴重な資料ともなる仕事である。

    父のみの父を埋むと茅(かや)が根の真白き土を掘りにけるかも   鳳作
    まだ見えぬ瞳(め)の青ければ青き瞳を日光の中に子はひたつぶる


また、これまでの「新歳時記通信」でも、多くの歳時記の誤謬を、できるだけ第一次資料・文献にあたりながら実証し、質し続けてきている。例えば、「春一番考」においても「『春一番の壱岐起原説』が偽説であることは、次の点からでも明らかである」として、民俗資料、各歳時記などにあたり、それを実証していく道筋など、スリルに満ちているばかりか、最後には真説を提示するのである。
ここでは、「風の題」のなかの「東風(こち)」についての、愚生の思い出話を少ししたい。
山口県(18歳まで、おおむね山口市と2~3年を防府市)で育った愚生は、ものごころついてから高校を卒業するまで、伯父の稼業の農業と小さな商店(よろずや)の手伝いをしながら、祖父の年代にあたる老人(と言っても、たぶん現在の愚生と同じくらいの年齢だったろうが)が「東風じゃけえ、真雨が降りよるで・・」と東風が吹くたびに、観天望気をしていたように思う。確かに経験に狂いはない。曇りから雨になっていたのである。愚生はその後、故郷にはほとんど帰らず、多くの記憶が失われてしまったが、今回「新歳時記通信」を読みながら、ふと思い出したのである。
防府にいたころ(たぶん、小3くらい)は、天満宮によく遊びに行った。「東風吹かばにほひをこせよ梅花主なしとて春なわすれそ」の菅原道真のことを知るのは後年のことである。


                 ヤマボウシ↑




2014年5月20日火曜日

井泉水忌・『私の空間』・・・




本日5月20日は、荻原井泉水忌である。
1884(明治17)年6月16日~1976(昭和51)年、享年91の天寿をまっとうした。
その井泉水に弟子の内藤寸栗子の句集「『私の空間』」に寄せた序文がある(『井泉俳話』四「この一筋を行く」収載、春秋社)。
昭和4年に書かれたものである
「『私の空間』ーいい名である。これで此書の持ち味が全体的に出てゐる」に続いて、

   (前略)此「空間」には鍵といふものがかゝつてゐない、扉がない、他の誰でもが勝手にそこに
 入ることが出来る。しかも、それに依つて自分のプライヴェートの寛ぎが少しも煩はされないば
 かりか、却つて、そこに自分達のくらぶ(…傍点あり)としての親しみを感ずる所の「空間」をー。
 「斯ういふ好い「空間」を此作者、寸栗子君は持つてゐるのだ。(中略)兎も角、君の「空間」がま 
 すます広く大きくなつて、おこに万人の心を容れてくつろがせる「空間」となるであらう事を私は
 期待してゐる。

いわば、新進の俳人への推挽の気持ちのあらわれた文である。芭蕉を敬愛していた井泉水は、名吟の数では蕪村に軍配を挙げるが、切り札を出し合う場合は、蕪村は芭蕉に及ばない、それは蕪村には「危うきに遊ぶ」ということがないからだといい、俳句を創作するよりも自分を創作するという気持ちが足りないともいう。そして、「佳句の少ない事、駄句の多いことなど決して恥になることではない、ただただ進むがいい、進めば通ずる、通ずれば達する。つまり、絶えず試みるといふ気持こそ、常に自分を創ることになつてくるのである」(「芭蕉と蕪村」昭和2年12月)と述べ
ている。俳句を書き続ける行為というのはこの試みを続け続ける志のことであろう。

                                              ユウゲショウ↑

2014年5月19日月曜日

世代の興奮は去った。・・・


 
世代の興奮は去った。ランベルト正積方
位図法のなかでわたしは感覚する。

「唄」第二号(1974年3月・紫陽花社刊)に初出の荒川洋治の「楽章」は上記のような表記だった。
「楽章」はのちに詩集『水駅』(1975年、書紀書林刊)に収載され、『水駅』はH氏賞を受賞した。
愚生が吉祥寺駅ビルあった弘栄堂書店に勤務していた頃、受け持った担当に詩歌の棚も含まれていたので、取次会社経由以外の版元との直接取引によって、いくつかの小出版社のものも扱っていたのである。
「唄」を置いて欲しいと訪ねてきたのが荒川洋治、平出隆などだった。駅ビルの奥にはねじめ民芸店もあって、ねじめ正一も店番をしていた時代のことだ。
「唄」は編集を清水哲男・正津勉、発行人が荒川洋治。隔月刊の予定のようだったが、どこまで続いたかは失念した(第二号はたまたま筐底に眠っていた)。
「世代の興奮は去った」・・・なんと格好良いフレーズだと、ちょっと興奮したのを覚えている。確か「ぼくらが戦後詩から学んだものは技術のみだ・・」というようなことを言ったのも彼だったように記憶しているが・・果たしてどうだったか。記憶はおぼろだ。
その「唄」二号には、清水昶「野の舟」、相生葉留美「外出」、佃学「肖像画のために」、清水哲男「スピーチ・バルーン(連作)」、正津勉「帰去来散稿」、黒田喜夫・寺山修司対談「彼岸の唄」が掲載されている。そういえば、書紀書林の「書紀」という雑誌を平出隆、稲川方人等が季刊でやっていた(今は手元にない)。
わが書店の詩歌の棚の「現代詩文庫」(思潮社)の売上が全国書店のなかでベスト3に入っていた、現代詩が輝いていたころのことだ。

                                             カルミア↑

2014年5月17日土曜日

俳句・寺田澄史 絵・宇野亜喜良著『新・浦嶼子伝』・・・


寺田澄史(てらだ・きよし、愚生らは「ちょうし」と言っていた)の句は、一行書きももちろん多いが、二行書きにその特徴があろう。
この『新・浦嶼子伝』は第13回現代俳句協会賞候補になった作品群らしい。岩片仁次がそのあたりについて「夢幻航海」第69号(平成21年9月刊)の編集後記に「寺田澄史『伏翼搭奇譚抄』が完結した。計画としては、これに『騎』に発表した句篇を以て二冊の句集となる予定であるが、さて、それがいつ実現するかと言うと、きわめて定かならずで、いわば、『地下のハコモノ』の実現に似ているかもしれない」といい、同誌前第68号の編集後記では「もし、その実現あらば、俳壇には全く無縁なれど、知る人ぞ知る、寺田澄史の蘇生として祝福するもあらん」と記している。

『新・浦嶼子伝』(トムズボックス・2002年400部限定、1500円+税)の絵・宇野亜喜良によると、当初は美術出版社から1964年に刊行された「日本民話グラフィックス」のなかから〈浦島太郎〉の部分だけを収録したという。宇野亜喜良30歳の頃の作品らしい。各ページに描かれた宇野亜喜良の絵は掲載できないので残念だが、寺田澄史の句を以下に、

    朝な朝なの 水甕に
    せめての父似が 酌まれけり         澄史

    水母流しの くらがりや
    ただ一秉(たば)の 髪を妊り

    父に似て 父にはあらず
    舟を舁いで 一足おそく

「夢幻航海」第68号(平成21年5月)に発表された「定稿・伏翼搭奇譚抄」の句から、

    あるじは 野(の)
    牡牛(おうし)は屋根(やね)に 焦(こ)げにけり

    照(て)り照(て)り坊主(ぼうず)
    粥(かゆ)の木(き)も 春(はる)まだき

この折の注釈に、寺田澄史は次のように記している。

  本稿は駒込に在住した津久井理一さんが、「八幡船」を創刊された折(昭38年)に、所望されて
 創刊号から三号まで、八句宛寄せたのが始まりだった。我等にテーマ主義を説きつつ、高柳さ 
 んが「蒙塵」に傾注していた頃で、当方は未だ駆け出しにも至らずも、その強い影響を浴びてい
 たことは云うまでもない。二行表記は、単に三行術、四行術に凭りかからざるも亦仁義ならんと
 思ったまでの戯れ事で、偶々、夢幻航海社が載せて下さる由なれば、殆どを新規稿にて入替
 え、おじゃまの次第也。


これまで、寺田澄史には、句集『副葬船』『がれうた航海記』『新・浦嶼子伝』などがあるが、愚生は『副葬船』は未見、『がれうた航海記』もコピーを持っているだけで、他は『昭和俳句選集』(永田書房)に収録されている寺田作品を楽しみに読むのみである。

  くわらくわらと 藁人形は 煮られけり      澄史 (昭和34年)

この年、赤尾兜子「毒人参ちぎれて無人寺院映し」、折笠美秋「散るという言葉の奥へさくら散る」、加藤郁乎「雨季来りなむ斧一振りの再会」、三橋鷹女「雪をよぶ 片身の白き生き鰈」、三橋敏雄「海山に線香そびえ夏の終り」、高柳重信「たてがみを刈り/たてがみを刈る//愛撫の晩年」大岡頌司「ちやんちやこの/魯西亜さむがる/ひもむすび」などの句が発表されている。

  日に三たび汝は自転車に縛らるれ        澄史 (昭和48年)

愚生が寺田澄史に会った最後は、高柳重信13回忌の折の富士霊園だったから、もうずいぶん長い年月をお会いしていないことになる。後年「豈」の表紙絵を描いてもらっていた故・風倉匠と友人だったとも聞いた。愚生が「俳句評論」の代々木上原句会に出席していた20代の初め、高柳重信が愚生に、「もし、今、マネをするんだっら寺田澄史や折笠美秋だな」という呟きと合わせて「若い人には僕の第三句集まで・・」と言ったのを覚えている。結局、愚生はこれまでどちらともつかず中途半端に終わってしまっているのだが。

 
エゴノキ↑

  


     

2014年5月16日金曜日

「現代俳句ノート第一号」・・・


「現代俳句ノート」は阿部完市と飯島晴子が二人で出していた冊子である。4号あたりまで続いていたように思うが、今、さまざまなコピーされたものの間からひょっと出てきたのは第一号である。
奥付には「昭和五十二年二月十五日発行 頒布300円 連絡先 飯島晴子」とあり、「後記」は(阿)と署名されているので阿部完市である。

  これは、二人のノートに非ず。ひとりひとりのノートである。◇このノートで、わたくしがわたくしだけに確認したことを、また、確認したいことを書き込んでおきたい。その意味で極私的ノート。◇一年間に二回ぐらい、このノートを提出する。◇はげしくありたい。

昭和52年(1977)といえば、完市49歳、晴子56歳の時である。たぶん、愚生は「俳句研究」に小さく載った広告を見て購読を申し込んだように思う。内容は完市・晴子がそれぞれ13句を発表。
散文は完市「わが作業『明日』」、晴子「現代俳句における俳句のリアリティーとは」と題して各7ページ、それぞれが最後にお互いの句を「一句鑑賞」というかたちで鑑賞しあっている。それには、完市は、

   冬の川十一面のばらまかれ     晴子

 (前略)十一面をばらまかれ、という「曖昧」な表現。その表「現」-うつつを表わすということ、そ  
 の表現志向の一固定を避けている、この作者のこのときの意識が、直に、ひたむきに書かれて
 いることを思ってよい。/志向性という本来一定であるべき方向指示の言葉を、歌い、一句に
 すれば、このようにまた、その志向一線が増幅され、華とされ、美しい美と定められる。この一
 句は、わたくしに、こう思え、と語りこのように華だ、と言っている。

一方、晴子は、

   いもうとの十一年その十一本の木のなかの    完市

 (前略)数詞のつくる世界の中で十一は際立って魅力がある。十一でなければ現れてこない、或
 る独特の美意識がある。/「いもうとの十一年その十一本の木のなかの」も、そういう美意識を
 抜きにしては享受出来ない。十一本の木の一本一本のなかに、いもうとの十一年が、あたかも
 箱の中のに箱が入れこになっているように入っている。或いは、いもうとの十一年は、十一本の
 木の立っているその空間である。「いもうと」と「十一」とで、この世から隔絶した可憐な世界をつ
 くっている。十一年と言っても、この句の時間は長く流れるものではなく、一つの塊りのような手
 応えを与えるところが、私の好きなところである。

と書いているのだが、掲載作品13句のなかに「十一」を読み込んだ句がそれぞれにあるのは、何か、合図をかわすように題を出し合ったのかもしれない(いや、晴子が出した題なのかもしれない)。阿部完市作品の冒頭は、「姉申す十一の市みえること」である。

   しだれやなぎのあおやぎののかなた図書館     完市
   出血の姉あらわれる竹あらわれる

   かくまはれ鮎をくはされゐたりけり          晴子
   さきほどのひとは盥に冷えてをりぬ 

お二人ともいまはおられない。晴子は2000年没、享年79.完市は2009年没、享年81。月日は流れる水のようにはやい。「現代俳句ノート」を手にしたのは、愚生29歳、冊子の名は記憶していたものの、内容については、すべて忘却していた。
   

                                                                        ヘビイチゴ↑

2014年5月12日月曜日

短歌には青春が似合う・・・


千葉聡著『今日の放課後、短歌部へ!』(角川学芸出版)の付録にあるのが穂村弘・東直子・千葉聡の座談会「短歌には青春が似合う」という題である。本著をひとくちに言ってしまえば、歌人にして高校教師の千葉聡こと、〈ちばさと〉先生の学園奮闘記である。

      好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ   東 直子
      終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて       穂村 弘      
      台風が近づく夜更けペンをとる 僕は闇でも光でもない          千葉 聡

  
ちばさと先生が戸塚高校にいた5年間、残念ながら短歌部はできなっかたという(中学校先生時代の著書『飛び跳ねる教室』もあるが、それは愚生は読んでいない)。しかし、短歌部はできなくても同校赴任直後、バスケット部の副顧問になるや、素人のちばさとバスケット部顧問はよく奮闘した。あれやこれや何気なく読み始めたこの本だったが、一気に読み終えてしまった(ときに涙腺がゆるんだ)。
それにしても、ちばさと先生は作曲もできるし、歌も唄える。もちろん短歌も即興で作ってしまうし、なかなかに多才なのである。落ちこぼれに等しかった愚生にはまぶしいばかりの奮闘記(奮闘する根性も持ち合わせていない愚生とは人生も違ってきて当たり前か・・)。
そうだ! こういう先生がいれば、まだまだ学校も捨てたものではない、と思わせる。
(学校教育など、何も信じてこなっかた愚生にはちょっと苦い自省の念が・・・なんてね・・・)。

もったいなくも恵まれた著書だが、愚生には、たぶん、歌人・千葉聡に面識はないと思う(あるいは、どこかでお会いしてして失礼しているのだろうか)。略歴によると短歌誌「かばん」会員とあるから、かつて同誌村長であった中山明や編集をしていた高柳蕗子などとの「かばん」つながりによる恵送だろうと思う。まことに有難うございました。深謝!



*閑話休題
昨年まで4年間、保存修復工事が行われいた朝倉彫塑館(日暮里)を改装後はじめて訪ねた。朝倉文夫生前の姿に近づいたという彫塑館はよく整備され、見学するにも行き届いて、改めてみた庭には車輪梅が咲いていた(彫塑館内では撮影禁止、下の写真は愚生散歩途中の車輪梅)。
朝倉文夫は1883(明治16年)大分県生まれ、1907年には台東区にアトリエを構えて、1928(昭和3)年から7年の歳月をみずから監督、設計したのが原型だという。1948(昭和23)年、彫刻家として初めて文化勲章を受章、1964(昭和39)年、81歳で没した。
 

                                         シャリンバイ↑

2014年5月9日金曜日

Spring Selection 2014-来場者の投票による大賞展ー

                 

大谷清の「よろしければ清き一票を!」という案内はがきの誘いにのって、銀座「ART POINT」(~5月16日)に出かけた。清き一票ならぬ贔屓の知人優遇票を投じたのはいうまでもないが、それでも展覧された絵画作品のベストスリーと思われるものには各一票ずつ入れることになっていたので、総合計点の勝負になるとしたら、その行方は、愚生の責任のうちではない。とはいえ、作品も愚生が贔屓筋とはいえ、ベストスリーに入れても悪くない正しい投票だたったと思うので、まあ、清き一票の範囲に入れてはばかることもないだろう。
作品にはお買い上げ価格も表示されているので、ご希望の主には絵画購入も可能だ。
大谷清は、現在はどうか知らないが、かつては金子兜太「海程」のレッキとした同人であり、阿部完市を師とする「現代定型詩の会」の運営にも深く関わっていた俳人で、久保純夫の高校生時代からの友人でもあったはずである。連れ合いは「豈」同人の津のだとも子である。従って句歴も長い。こ今回は、彼の
 
俳句作品ではなく絵画作品が展示されている。
せっかくなので『21世紀俳句ガイダンス』(現代俳句協会)から大谷清の句を引いておこう。

     往生の懸命に金雀枝であり           清
     空中疲労の一点は花しょうぶにて
     紅梅の物質という気軽なり

                    ツルニチソウ↓

2014年5月6日火曜日

江里昭彦「俳人の『生きるじたばた』」・・・


「夢座」170号の江里昭彦の第44回連載「昭彦の直球・曲球・危険球」のタイトルが「俳人の『生きるじたばた』である。「生きるじたばた」とは茨木のり子『詩のこころを読む』(岩波ジュニア新書)のなかの章名の一つだという。その茨木のり子のキツイ警句を江里は引用している(以下孫引き)。

  詩は感情の領分に属していて、感情の奥底から発したものでなければ他人の心に達すること 
 はできません。どんなに上手にソツなく作られていても「死んでいる詩」というのがあって、無残
 な屍をさらすのは、感情の耕しかたが足りず、、生きた花を咲かせられなかったためでしょう。

江里昭彦の今回の書評(恵送お礼の気持ちらしい)には、橋爪鶴麿『禱りの木』、桑原三郎『夜夜』、後藤昌治『拈弦帖』、志賀康『幺』、高野ムツオ『萬の翅』、高橋修宏『虚器』、丑丸敬史『BALSE』、渡辺隆夫『六福神』の8冊、なかでも印象に残った江里の評は『虚器』への句集について「向後、句集における企画力・構想力を語る際には逸することのできない一書となろう」という一言だった。

「夢座」にはもう、一編、メインの連載がある。齋藤愼爾の「『時』への眼差しXー「花鳥諷詠を排す」である。今回はほぼ「ホトトギス」稲畑汀子に対する読み応えのある批判に終始している。

「夢座」も息の長い雑誌で、すでに27年を迎えている。
もとはと言えば、紀伊国屋書店新宿本店の地下街のカレーショップ・ニューながいのカウンター席で、常連客を中心に月一回、店のシャッターを半分ほどを閉めて、ちょうどカウンターに座れるだけの人数10名くらいで出発し、その句会報を毎月発行していたことを起点としている。
カレーショップの経営をしていた椎名陽子をスポンサーにその句会ははじまったらしい。その椎名陽子が病に倒れ、現在はリハビリに努めているという。もう一人の中心メンバーが市川恂々である。いわば、この二人を囲むかたちで「夢座」句会は毎月、27年間続いてきたのだ。 
現在編集上の多くの労をとっているのは、銀畑二である。

       寒月光 靴は揃えておく          鴨川らーら 
       鏡を移る雪雲に独り載せる        照井三余
       雪二尺独居老人気配なし         金田 冽
       少年に呼ばれるまではヒアシンス    渡邉樹音
       誕生日から命日 湖が澄む        ささのさら 
       おぼろ月靖国を呑んでからの鬱     江良純雄
       天高し車内の一列みなスマホ      佐藤榮市
       しめ飾り運命がドア叩く音         城名景琳
       花電車みんなで虚構の橋わたる     森 英利  
       一月一日桜山神社に詣で         銀 畑二

                                         カタバミ↑

宮崎進展「立ちのぼる生命(いのち)・・・


いい天気に誘われるように、初夏の海辺に吟行・・葉山「日影茶屋」、葉山マリーナ、神奈川県立近代美術館を歩く。ゴールデンウイークというのを頭に入れていなかったので、バスは交通渋滞でノロノロ・・。
海岸通りを、ヨットや海辺の人たちを眺めながら、一色海岸沿いに歩くが、道路が狭く、車の排気ガスには少し閉口した。
それでも、神奈川県立美術館葉山は、建物も海岸につながる庭もよかった。
何より宮崎進展は、愚生にとっては、山口県生まれの画家という故郷つながりのみといういい加減なものだったが、宮崎進のシベリアのものには、同郷の香月泰男を重ね合わせて観てしまった。
白の色、黒の色も香月泰男を思い出させたし、さらにその迫力は麻布を使用した独特なもので、或いはブロンズなどの大作も含めて香月に劣らず匹敵していた。
宮崎進は、1922年生まれで、42年応召、敗戦により俘虜としてシベリアに抑留、49年に帰国という境涯においては、香月と似ている。現在もなお92歳で現役健在である。
宮崎進『鳥のようにーシベリア 記憶の大地』(岩波書店)には、石膏や油土の像の写真のページには、次のような言葉が記されている。

     二十代の戦争と俘虜体験は私の内部に強烈に刻まれ、原点として深い影を落としている   
    シベリアで見た人間の残像は、今も心に焼き付いている。

     私にとっての「戦争とは何か」という問いは、「人間にとって戦争とは何か」という思いに    
    変わり、そのことを離れて仕事をすることはなくなっていった。

   
    かつて私は虜囚として鎖され、歴史の狭間に翻弄された。この鳥でもない、人でもないボ
   ロボロの姿は、私の化身のように、大地に突き刺す十字架のように、立ちはだかっていたい    
   という望みの現れである。

というフレーズが、木、麻布、石膏で作られた像「鳥のように」(2001)の作品にはコメントされている。昨今のロシアに駄句献上!

    漂うになみだの鳥のウクライナ     恒行



 

2014年5月4日日曜日

鶴彬「手と足をもいだ丸太にしてかへし」・・・

                                                                        講演する太田土男↑

5月3日、憲法記念日には、恒例となった「俳人『九条の会』新緑のつどい」。
今回は太田土男の講演「「手と足をもいだ丸太としてかへしー川柳作家 鶴彬のこと」を聞きに出かけた。
鶴彬は、1917(明治42)年石川県生まれ、本名一二(かつじ)。15歳で川柳を始め、19歳で高松プロレタリア川柳研究会で拘束され、21歳(昭和5年)、金沢第七連隊に入隊し、翌年第七連隊赤化事件(ようするに軍隊で反戦ビラを配った)で監獄に収監された。刑期は一年七か月。
この年、満州事変が起こっている。
28歳(昭和12年)の時、詩人の秋山清の紹介で東京深川木材通信社に入社するも、12月3日出勤と同時に特高警察に検挙され、中野区野方署に留置された。その留置場で赤痢にかかり、翌年の9月に逝去、享年29の若さだった。
掲出句の丸太は死体のことである(戦死した死体)。

     屍のゐないニュース映画で勇ましい      彬
     万歳とあげて行つた手を大陸において来た

そのほかの句に(昭和10年)、

     これからも不平言ふなと表彰状
     働けばうづいてならぬ●●●●のあと

●●●●は検閲による伏字で該当するのは拷問(ごうもん)と推考すると鶴彬全集編者・一叩人は記している。

    タマ除けを産めよ殖やせよ勲章をやらう
    釈放を解雇通知が待つてゐた



その鶴彬の墓は、盛岡にいた兄の孝雄が引き取り、彬の一周忌に間に合わせて、(当時、非国民であるゆえに)、盛岡光照寺にひそかに小さく建立した、と、太田土男氏は述べ、その墓を訪ね探し当てたことを話しておられた。

  
                                           ミズキ?↑

     

2014年5月3日土曜日

田中淑恵「ミニチュアブックのなかの物語」・・・


小さな本のパイオニアと称する田中淑恵の手製の本の個展が、三省堂本店第二アネックスビル4Fの古書店の一角で行われている(~5月10日(土)まで)。
彼女の装幀によって句集を出された俳人も少なからずおられるのではないだろうか。
その感性は手作り「豆本」に遺憾なく発揮されている。
自著のミニ本『鳥のうたった歌』も愛し気に希望を歌った詩編である。

個展にはさまざまなミニチュア本、例えば、ビアズリー、A・A・ミラン、広津里香、結城信一、紫式部、川本三郎などがあったが、とりわけ愚生は、30歳で夭折した大手拓次に魅せられたことがあるせいか、拓次のものに興味をもった。さすがに拓次の「藍色の蟇」(写真下)の薔薇賛歌の連祷詩編にちなんで薔薇を装幀に生かしたのに魅かれた。


そういえば、高柳重信もおおいに薔薇連祷の一連には影響されている。

    しづかに
    しづかに
    耳朶色の
    怒りの花よ           重信


は、あきらかに拓次の「耳朶色の薔薇の花」のフレーズが生かされている。その拓次が象徴主義について「象徴詩は生活の象徴である。折にふれ汝の胸にある生の面影が出るのである。/詩人自身の個性の映像であり、人生の映像である。/現実を捨てるときはロマンチシズムとなり、現実をすて得ないからこそ、象徴の文学が生まれるのである。飽くまでも現実の上に立ち、その苦しみをのがれんとして夢見るとき、二者のとけ合った幻が生ず」と記しているのはいまだに忘れがたい。

                                           ハナズオウ↑