2014年5月21日水曜日

前田霧人「新歳時記通信」第8号・・


「新歳時記通信」の編集発行人は前田霧人。数年前に労作『鳳作の季節』(沖積舎刊)を上梓して、篠原鳳作についての文献を精緻に探索し、鳳作の生涯を描き出した筆力には定評がある。鳳作研究の第一人者といっても過言ではなかろう。
「しんしんと肺碧きまで海のたび」鳳作(雲彦時代の句)の無季句に出合って、鳳作についての著作のみならず、季語(新歳時記通信では季題)をめぐる探索を自力・独力で「新歳時記通信」として、発行し続けている。
今、第八号も、彼にとっては当然の射程にある仕事なのだろうが、一年をかけた歳時記における季題の研究はA5版195ページ、その膂力、持続力と熱心さに胸打たれる思いだ。
第八号の巻頭は「鳳作と短歌」で、篠原鳳作の書いた短歌作品を調査して掲載している貴重な資料ともなる仕事である。

    父のみの父を埋むと茅(かや)が根の真白き土を掘りにけるかも   鳳作
    まだ見えぬ瞳(め)の青ければ青き瞳を日光の中に子はひたつぶる


また、これまでの「新歳時記通信」でも、多くの歳時記の誤謬を、できるだけ第一次資料・文献にあたりながら実証し、質し続けてきている。例えば、「春一番考」においても「『春一番の壱岐起原説』が偽説であることは、次の点からでも明らかである」として、民俗資料、各歳時記などにあたり、それを実証していく道筋など、スリルに満ちているばかりか、最後には真説を提示するのである。
ここでは、「風の題」のなかの「東風(こち)」についての、愚生の思い出話を少ししたい。
山口県(18歳まで、おおむね山口市と2~3年を防府市)で育った愚生は、ものごころついてから高校を卒業するまで、伯父の稼業の農業と小さな商店(よろずや)の手伝いをしながら、祖父の年代にあたる老人(と言っても、たぶん現在の愚生と同じくらいの年齢だったろうが)が「東風じゃけえ、真雨が降りよるで・・」と東風が吹くたびに、観天望気をしていたように思う。確かに経験に狂いはない。曇りから雨になっていたのである。愚生はその後、故郷にはほとんど帰らず、多くの記憶が失われてしまったが、今回「新歳時記通信」を読みながら、ふと思い出したのである。
防府にいたころ(たぶん、小3くらい)は、天満宮によく遊びに行った。「東風吹かばにほひをこせよ梅花主なしとて春なわすれそ」の菅原道真のことを知るのは後年のことである。


                 ヤマボウシ↑




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