2014年6月30日月曜日

いまどき「切れ」なんて、そんなに大事なものじゃないですよ(仁平勝)・・・


                蔵王↑

タイトルの言葉は、仁平勝。
6月25日(月)、読売新聞夕刊「俳句時評」のものだ。
「切れ」に関する仁平勝の持論は、彼のいわゆる俳壇デビューを飾った「〈発句変貌ー切字論序説」(『俳句の現在』南方社・1983年2月刊所収)から一貫している。
つづめて言えば切字は和歌の伝統的な情緒から切れるための方法である、ということであろう。
それは脇句の七七から切れる、固有の方法なのであり、発句の誕生は和歌の美学から脱却する批評意識の必然的な変貌だった、ということである。
当時、仁平勝が指摘し、何よりも重要だと愚生に思えたことは、
  
 
    かつては和歌的な美学に対する反措定として表現された俳諧的な自然観(あるいは人間観)は、今日では私たちの自由な感性を安易なところで統御しようとするもっとも保守的な観念として、ちょうどかつての和歌的な美学の位置に昇華してしまっている。そして発句形式としての五七五定型が、そういう美学そのものと不可分な形態でしかないとすれば、いま俳句などは私たちの〈詩〉にとってなにものでもない。逆に言えば、もし、俳句形式が単に保存するだけの古典芸能としてでなく、五七五の定型詩として現在的な詩的状況を生きているのだとすれば、〈発句〉とともに切字は、なんらかのかたちで変貌を強いられるはずである。(〈発句〉の変貌)。

と述べ、次の二句を引用してみせたことだった。

    まなこ荒(あ)
    たちまち
    朝(あさ)
    終(をは)りかな                        高柳重信

    リラリラと前世からの射精かな              加藤郁乎

言えば、現在、俳壇でかまびすしく言われているのは、いわゆる西洋詩的なことばの「切れ」論でしかなく、ほとんどが句の印象を披歴するにとどまっていることに、少しうんざりさせられてもいる。
それらの多くは、一句における「切れ」を断絶を創ると言い、あるいは単に意味上の切れを指摘し、そのことによって詩的飛躍を獲得する・・というような言説が多くを占めている。
挙句の果てが「季語がよく効いている」とか、どのように効いているのかは全くかかれてはいず、ひたすらな黙契と微笑を強いるのみである。
もうひとつ、この時評では、発句の変貌という意味では、具体的に今橋眞理子の句を挙げて、「現代の感覚では、逆に五七五の不安定さが効果的なこともある」と、切れの弱さの魅力的・効果的な一面を読み解いていることである。俳句の現代の読み方をも示唆しているのだ。これから俳句を担うであろう次世代の感覚を、読み解いてみせる仕事も大事である。新しい俳句には、常に新しい読み方が求められているというということでもあるだろう。
ともあれ、仁平勝にすれば、あまりに俳句は切れが大事などと言いつのられると、つい「そんなに大事なものじゃないですよ」と言いたくなったにちがいない(老婆心ながら・・)。

そして、次回の時評は「いまどき『取り合わせ』って、そんなに大事なものじゃないですよ」と来るかも知れないと推理、想像している。果たして結果はいかに?・・・次回の時評を楽しみして待つことにしよう。

                     
                     カラスウリ↑

*閑話休題・・・
実は、上記の読売の時評を読むきっかけは、先日の「件の会・高野ムツオを囲む夕べ」の仁平勝が挨拶のなかで触れていたので(きっと無視されるにちがいないと淋しく言っていたので)、愚生は、無視しないよ、というこれまた挨拶のようなもので、是非一言書いて置きたいと思ったのだ。というわけで会の翌日、府中市シルバー人材センターでの7月からの請負仕事先に入るための研修を終えた折に、降り出した雨の雨宿りを兼ねて府中市図書館に寄って、読んだ。

                                   マツバギク↑



2014年6月28日土曜日

高野ムツオ「俳句は自分のためにつくる」・・・


               

昨夕(6月27日・金)は、山の上ホテル別館で「高野ムツオさんとの夕べ」(さろん・ど・くだん 第十回)が「件の会」主催で行われ、出かけた。
今年から「件の会」会員になった高野ムツオの講演だった。
高野ムツオ地元の仙台藩伊達家の家来で支倉常長の慶長遣欧使節団とスペインの交流400年を記念して、その交流行事でスペインに出かけた折のスペインの俳句事情や東日本第震災以後の俳句の言葉のありようについて、「言葉の力のありか」と題して講演をした。その締めくくりに詰まるところ「俳句は自分のためにつくる」と語ったのである。
会場は満席で、約140名の出席者、幾人かの方々と久しぶりにお会いした。

                                 愚生が名を知らない花↑

2014年6月24日火曜日

星野高士「帯解の台詞の如き御挨拶」・・・


星野高士第五句集『残響』(深夜叢書社)は「あとがき」によると「玉藻」一千号記念、また、「玉藻」新主宰に就任するにあたっての記念出版という。発行日は「立子忌」の三月三日。高士主宰と同時に母・椿はm栄誉主宰に・・。さまざまのこだわりを持ち、実現しての第五句集『残響』の刊行ということになるらしい。めでたい因縁というべきで、まずは寿ぎたい。
その記念の会が「玉藻一千号祝賀会」として今週28日(土)に行われることになっている。
愚生の高士俳句に関する印象でいうのは、はななだ申し訳ないが、第三句集『無尽蔵』で化けたという風に思っている。が、これはあくまで印象であるので、緻密に考察したわけではない。

    花冷のぶつかり合ひし闇と闇       高士

句集『残響』の特徴は何と言っても、その句の配し方である。
現在の句集における句の配列は、そのほとんどが春夏秋冬・四季別に配されているのだが、『残響』は違っている。あえて言えばキーワードによって区分されているということである(もちろん、季節の循環は考慮されているようだ・・・)。
従って章立ては二章ながら、その目次の題には、それぞれの句の言葉が配されているのだ。
例えば、第一の章は「冬の闇」「梟」「初箒」と続き、それぞれのタイトルに5~10句程度が収められている。最後は「雑詠」というのも興味をひかれる。
勝手な推測だが、句の新の追求と同時に形式的にも、具体的に句の編集方法を通じて、継承のみならず、変革の志をうかがうことができる。それが虚子一族の隠されていた俳句への志と通じている何かなのかもしれない。
いくつか句を挙げて祝したい(下段に収載されているタイトルを付す)。

   分厚さを均してをりぬ冬の闇        「冬の闇」
   真の闇あればどこかに梟も         「梟」
   引鶴のひとかたまりにゐて疎ら       「引鶴」
   枯蓮の向ふの雑木林かな         「初時雨」
   すかんぽを抜いては風にうづくまり    「開帳」
   街白夜少年つける煙草の火        「白夜」
   帯解の台詞の如き御挨拶         「帯解」
   春泥の道にも平なるところ         「捨頭巾」
   早春や港の船は多国籍          「雑詠」
 

                                             クチナシ↑

2014年6月16日月曜日

仁平勝「いまに手放す風船を持ち歩く」・・・



現代俳句文庫75『仁平勝句集』(ふらんす堂)が上梓された。帯の句は「追憶はおとなのあそび小鳥来る」、なるほどそうに違いない。幼児や少年にはまだ追憶するべき何物をも所有していないからだ。少なくとも壮年(もっとも青年には憧れてあまりある追憶が想像力の世界として求めらたかも知れないが)以後がふさわしい。下五「小鳥来る」はどうでもよいような措辞だが、これはこれで、うまく置かれていて、光景を設定、創造するための言葉である(それが季語だというのならそうでしょうというほかはないが・・)。人はどのような追憶のうちに生を肯うことができるのだろうか。
誰かが文学とは古里(故郷)のことだ、と言った。思い出すべき幸福な古里(故郷)を持つことがかなわなかった人にも等しく古里(故郷)はある、と思いたい。
それでも「小鳥来る」は「追憶はおとなのあそび」のフレーズと関係すると、淋しい光景であることに変わりはないだろう。仁平勝は、ある意味で、初期から一貫して欠落を詠い続けた。それを空白という人もいるかも知れない。しかし、この空白たる欠落はついに埋められることはない。それは存在のさびしみであり、ある種のニヒリズムを宿している。
解説は池田澄子に宇多喜代子、いい姉御たちに囲まれたものだ。
ここでは、最近の『黄金の街』以後からいくつか挙げておきたい。

    献血の旗を倒して春一番        勝
    いまに手放す風船を持ち歩く
    はぐれたる蟻しばらくはわが膝に
    すれ違ふどちらも胸に愛の羽根
    湯船とは沈む船なり神の留守
    ゆく年の謝れば済むことばかり
    日月火水木金土日脚伸ぶ

「あとがき」にいう「俳句というのは、五七五の定型に組み込まれた言葉が、たんに意思伝達の手段とはべつのもの(つまり詩)に変容する。それだけが本質的なことで、あとは流派ごとの趣向の問題である」と、恰好いい。この断定には異論なく思えるが、「あとは流派ごとの趣向の問題」といえば、異論が生じないわけではない。ときに仁平勝は、ワザととも思える挑発的断定を置くときがある。そのときは、「たしかにそうかも知れないが、それだけでもなさそうだぜ」と、ついつぶやいてしまう。その意味では、俳句のことを考えるには、仁平勝の発言はよく写す鏡なのだ。愚生は、その鏡のお蔭で、少しはましに見えるようにと、つい、ないものねだりの方角をみてしまうことがある。

 


                     ナツツバキ↑
    

2014年6月15日日曜日

浅沼璞著『西鶴という俳人』・・・


浅沼璞は、新連句形式「オン座六句」を提唱し、自らをレンキスト(連句人)と呼ぶ。最初の著書は、20年近く前に出版した連句論『可能性としての連句』(ワイズ出版)だった。真鍋呉夫と連衆でもあったので、真鍋呉夫捌きのの連句の会、さらには、彼に連れられて、自宅で呉夫夫人の手料理のみならず、お土産に漬物などをいただいたことなども思いだした。

『西鶴という俳人』(玉川企画・1500円+税)の「あとがき」冒頭に、

  本書は私の三冊目の西鶴論である。最初の『西鶴という方法)(鳥影社、二〇〇三年)では西鶴プロダクションのような浮世草子創作の場に俳諧宗匠(連句の捌)としての西鶴像を措定した。次の『西鶴という天才』(新潮社、二〇〇八年)では、その俳諧・宗匠西鶴の発想のルーツに発句(俳句)をすえてみた。周知のことだが、ほとんどが、署名がない浮世草子に比し、発句には作者名が記されている。果たしてこの批評体験は、浮世草子の無名性・匿名性を、俳諧師・西鶴の有名性・実名性へと還元することとなっただけではない。(中略)
 本書は読者層を鑑み、Ⅰ部を〈基礎編〉、Ⅱ部を〈応用編〉としている。けれど視点を変えれば、Ⅰ部が共時的〈俳句・小説篇〉、Ⅱ部が通時的〈俳諧・浮世草子篇〉ともなっている。私は〈俳諧師西鶴〉にこだわりがある一方で〈俳人西鶴〉の発句に俳句ジャンルの可能性を予感してもいる。どうしようもない断絶がそこにはある。

その基礎編だが、目次を見るだけでも、その分かり易く、前代的にアレンジされた様子がわかる。いわく第一章「 ケーザイ俳人の目」、第二章「フーゾク俳人の目」、第三章「ゲーノウ俳人の目」、第四章「エンタメ俳人の目」という具合である。愚生のように無知なものには、専門的でありながら、じつによく腑におちるように西鶴が描かれていると思う。引用したい箇所は多くあるが、そんな手間をかけるよりも興味のあおりの方々には気軽に手にとっていただいくのがいいだろう。値段も手ごろである。
したがって、ここでは、下記引用を除いて、Ⅱ部の応用編も目次のみを参考に挙げておくにとどめよう。因みに第一章「独吟俳諧考」、第二章「発句考」、附録として「連句にみる江戸の生活」・西鶴略年譜とある。

   すゞみ床や茶屋淋しくも月夜に釜(かま)

六・七・六音の字余り。「すゞみ床」(涼み床)で夏。「月夜に釜」は諺「月夜に釜を抜かれるの略語で、明るい月夜に釜を盗まれるという意味から、油断しきった状態のたとえである。その諺をもじりながら、油断しつつも「月夜に釜を抜かれる」ことない間の抜けた淋しさを描写している。(中略)
 なお誤解ないようにふれておけば、この俳句の「釜」は今でいう男色のオカマとは関係がない。当時、舞台にでる前の修行中の歌舞伎子を陰間(かげま)といった。それがだんだん歌舞伎から離れて男色専門の少年をさすようになり、さらにカゲマをカマと略すようになるーこれがオカマの語源の有力説である。だからオカマという俗語は、まだこの時代には成立していなかった。

                                           カキツバタ?↑

:
*閑話休題・・
浅沼璞は1957年、たしか大島の生まれでかの浅沼稲次郎と親戚と聞いた。確かに横顔は、若き日の稲次郎という感じでそっくりだった。その浅沼璞はかつて、大昔の話だが、合同労組所属の某高校の組合の書記長をしていた時代に、愚生もまた地域合意同労組の組合活動つながりで知り合うことにもなった。ただ、最初に、彼にあったのは第一回「俳句空間」評論賞佳作入選(1990年6月)以後、何度か彼に原稿依頼をした縁による。
そういえば、今日は60年安保闘争、国会突入闘争の犠牲となって虐殺された樺美智子の忌日だ。
愚生はまだ小学生だった。

シモツケ↑

2014年6月9日月曜日

研究資料「大岡頌司多行俳句集成」・・・


手元に、発行者も発行所も発行年月日もなにも記されていない(つまり、奥付のない)冊子が3冊ある。いずれもワープロで印字された私製のものである。ひとつは、彼の多行の句ばかり約260句収載した「大岡頌司多行俳句集成」(句集の序なども収載)、そして、「大岡頌司研究資料集」、これには高柳重信、河原枇杷男、寺田澄史、加藤郁乎、永田耕衣、安井浩司などの書評や句評さらに大岡頌司主要俳論抄などが収めてある。それぞれ約40ページもの仮綴じの冊子である(もう一冊は「
大岡頌司自選百句 附/『昭和俳句選集』入集句・補遺」。いずれも「研究資料」という囲みがある。
たぶん、大岡頌司に関する研究会が行われた折に配布された内輪の冊子なのであろう。
さすれば、この冊子を手作りしたのは酒巻英一郎に違いない。
平成15年、65歳で亡くなる直前、大岡頌司の病床に届けられた『大岡頌司全句集』(浦島工作舎制作・七月堂)の編集委員の一人だった酒巻英一郎こそが、唯一の大岡頌司の弟子と言って間違いはないからである。その酒巻英一郎はかつても現在も大岡頌司の三行表記の句の継承者でもある。
その大岡の多行表記の句を収めた『利根川志圖』評で加藤郁乎は次のように記している。

  何よりも手作りの仕事を愛する大岡頌司は、既製品ずれしたポエジーを最も嫌う俳人だ。彼には彼なりのメートル原器、それを確かめつつ伸縮させて止まない触感という名の物差しが儼としてある。意味性のよだれくりをべとつかせるだけの当世風俳句とか、板チョコの屑をねぶり合せたごとき甘えの造型論など、彼の全く採らないところである。


     我名薨じて
     三位となれや
     冬の蝶                 頌司


 
それにしても、今時、大岡頌司の名を口にしても、いわゆる俳壇では、ほとんどの人がご存知ないようである。確かにマイナーポエットであったとはいえ、その名を聞いたこともないというのは寂しいものだ。
入手しやすい大岡頌司のテキストといえば『現代俳句全集』第5巻(立風書房)に収められた阿部完市・飴山実・飯島晴子・宇佐美魚目・大井雅人・大岡頌司・川崎展宏・河原枇杷男・後藤比奈夫・鷹羽狩行等のなかでの一人だったくらいなものだから、仕方ないのかも知れない。
かつて愚生が月刊「俳句界」に在籍した折に「魅惑の俳人」のコーナーで、何度か企画案に乗せたことがあったが、愚生の力量不足もあって、ついに、認められず、実現できなかった(唯一の心残りだったかも?・・)。
ともあれ、大岡頌司の句のいくつかを紹介しておきたい。

   
    
    かがまりて
    竃火の母よ
    狐来る

    ともしびや
    おびが驚く
    おびのはば

    しばのとを
    たたきつづけて
    われとなる

    ちづをひらけば
    せんとへれなは
    ちいさなしま

    黄泉の厠に
    人ひとり居る
    暑さかな


    川下に向つて
    左側が左岸である
    どのごおとんか

    
    あねもねの
    攝津を
    殺す
    橋あまた


                    アジサイ↑
   

2014年6月8日日曜日

宮崎斗士「背泳ぎや太陽があるちょっと照れる」・・・


宮崎斗士句集『そんな青』(六花書林)は、少し不思議な句集である。
金子兜太の帯文は短く「詩が溜っているから 峠をどんどん歩いてゆく 鹿や狐や猪に よく出会う どっちも笑う」とユーモラスに賞揚されている。
あるいは、栞文は4名。安西篤、塩野谷仁、柳生正名、小野裕三、これらの陣容をみれば、俳誌「海程」の申し分ない嫡子、エースのような存在であろう。
しかし、そのいずれの評文も、宮崎斗士の俳句を明確につかみきれないことがどこかににじみ出ている文なのだ。そして、それがまた宮崎斗士の魅力であり、新しい俳句の一つの道ではないかと思わせている。その道はしかしどうやら宮崎斗士にしか歩めない、余人にとっては意外にたどるのに難しい道のようでもある。
かくいう愚生も、斗士俳句の実態をつかみかねている一人ではある。
思い起こしてみると、平成21年第27回現代俳句新人賞(この賞は現代俳句協会員以外の応募も可、年齢制限以外はすべてに開かれている賞である)は、愚生が選考委員の一人になって初めての選考会だった。確か各委員の選考評が拮抗して宇井十間と宮崎斗士の二名授賞になったと思う。
もちろん、無記名での選考だから、最後に事務局から受賞者名が明らかにされるときは、選考委員自身も興味深々なのだ。開けてみたら両名とも「海程」所属だったので、思わず、また「海程か~」とつぶやいたほどだ。それほど、「海程」に有望な若い俳人候補がいるということなのだろうが、確かに応募作のなかでは、他に比して、安定した筆力と感覚の新鮮さ、なにより今後を期待できる俳句の世界がほぼ確立されていた、と思えたのだ。
栞文のなかで柳生正名は、

    青き踏むふとおっぱいという語感               斗士
   
    鮎かがやく運命的って具体的
    切り株や春ってさまざまな擬音
    「じゃ、上脱いで」とあっさり言うね蛇苺 

など、いわゆる促音「って」を使った口語調の句数は全体の4分の1に達すると分析し、「『って』は宮崎や、その同志tもいえる存在の芹沢愛子らが切り拓いた、あらたな文体世界と言えるのではないか」と評し、「宮崎の口語的な俳句空間には、その日常のリアルと連続した、つまり逃避のための句作りとは違う強さがある」と指摘している。

  また、小野裕三は親愛を込めて「そうだったのか。「『ポストモダン俳句』運動は宮崎斗士に始まり、宮崎斗士において完成したのだ。たった一人きりの俳句革新運動。どうやら世の中の多くの人がそのことに気づいていないらしいのが、どうにも歯痒く思えるのだが」と述べている。

句集のタイトルが「そんな青」だから、青色を思わせる句もいくつかある。それは同時に空でもある。

  葉月かな打球が伸びて空がある
  体操もラムネも空に向かって礼
  治虫忌や抜歯のあとの青い空
  夏帽子おのおのさがす青があって

ともあれ、最後にはいつものことながら愚生好みの句を挙げさせていただきたい。

  消去法で僕消えました樹氷林
  高校俳句部今日の講師は雪女
  柿の色とにかく生きなさいの色
  家族というはるかな議題水蜜桃 
  背泳ぎや太陽があるちょっと照れる
  

                                             グミ↑


2014年6月7日土曜日

2冊の『豈』・・・

下段『豈』が正本↑  
 
 
川名つぎお句集『豈』(現代俳句協会刊)の2冊目が送られてきた。
理由は「先に謹呈いたしたものに製本上の不備があり、再めて上製本として作り直した」のだそうである。
従って、本文の句の内容は先に贈られてきた『豈』と全く同じである。
先に贈られてきた句集と見た目に違う部分は装幀のみである。
不備であったのは、初版が略フランス装の本で、どうやら背の糊付けが悪く開くと表紙も本文用紙もバラバラになってしまうのでいうことらしい。
このたび贈られてきたのは、普通の上製本でしっかりした造本だ。
とはいえ愚生に贈られてきた先のフランス装のものは、背は剥離したものの句を読むについては全く支障はなかった。
最近はあまりないようだが、少し時代をさかのぼると、同じ本でも初版と再版の本の装丁が違うものもあった。
そうすると、初版の古本の価値が上がった?ようで、さらには好事家などには、落丁本や製本断裁のミスで市場に出回り、もしくは回収されて、希少本になったものの方が値が上がってしまうということもある。
その伝でいけば、この川名つぎ句集も、「こちらを正本とさせていただきます」という文言からすると、いわゆるゴミ同前となった最初の版の方に値がつくという結果になるやもしれない(何年後かはわからないが・・)。
川名つぎおは、その略歴によると昭和10年、東京市蒲田区生まれ、本名・次雄。平成元年に多賀芳子に師事とある。その多賀芳子生前に、川名つぎおを「豈」同人にと身柄を預けられたのが、平成4年、攝津幸彦が亡くなる4年前のことであった。
句集『豈』は、『程』『尋』に続く川名つぎおの第三句集である。句集題はどれも一文字である。
いくつか句を拾ってみたいが、「おれ」、つまり、自身を詠みこんだ句がかなりある。そこには川名つぎおの心の在り様、置かれどころが垣間見えるのである。

    今朝の秋きのうのおれがまだ着かぬ
    短日やぼくはぼくに近付くまいと
    朝焼と季語集がおれのララバイ
    自分から逃げた自分が原風景
    消えかたはおれと同じさ冬夕焼
    おれの掌が犬の目玉と押しあえり
    原爆以後わが身の内は他者になり
    我の字に戈ありわれは夏野の木
    ゆく秋の荷物はおのれ自身なり
    川名つぎおで虎穴におりている    
    川名つぎおのうしろにまわらない
    
   
あと一つの特質は、3.11以後をめぐる震災句であろう。
いささかのニヒリズムがそこに胚胎しているので、顰蹙を買うことも考えられるが、その批評性にはするどい指摘もかくされているようだ。あえて言えば、その先の世界を手繰り寄せなければならないのではなかろうか。それは、いささかの時間と、実に困難な試行をまたなければならないのかも知れない。

     東日本大震災 一群 5句 (第三章 平成23年ー24年)
   絆なき牛寄ってくる冬山河
   ヒロシマになりたかった福島県
   遺族あり風化することの明るさ
   本能は巨大地震を待ちながら
   四季に降りそそぎ臭わない見えない

    東日本大震災 2群 9句 (第四章 平成25年)
   防潮堤なしに逃げきっていた
   新しく津波忌ふえて無音なり
   ヒロシマは火偏・フクシマは日偏
   三度目は全域おぼろのみちのく
   ブナ林に縄文食のあるものを
   みちのくは椎栗実るブナの国
   混農林か滅びゆく無住地か
   激震や西に東に渡り鳥
   原発という戦争になっている

最後に愚生好みの句をいくつかあげさせていただきたい。

   海溝の棚場に鑑(かがみ)と沈んでいる
   きみをゆるさぬきみがいて涼しい
   衣食たりて家出するしかない
   ここ戦火のかなた愕然と飽き
   食い罰を言う人なしに青田かな

                エリカ↑

*閑話休題
2,3日インターネット・メールの不具合が続いていて、今日ようやく回複した(ブログもメールもダメだった)。
愚生の鼻ポリープは術後2週間を過ぎ、順調に回復基調です。
本誌「豈」も、変わらず、のろまな歩みですが、予定の7月下旬出来を目指して稼働中?です(少し遅れるかも・・・)。
(早々に玉稿をいだいた方々には恐縮ですが、御礼を申しあげ、中間報告とさせていただきます)。

                                                   ドクダミ↑

2014年6月4日水曜日

川嶋隆史『天田愚庵の生涯』・・・


本著『天田愚庵の生涯』(文學の森)は、福島県いわき市生まれの川嶋隆史が、これも同じ郷土の生まれの天田五郎(旧姓・甘田久五郎)こと天田愚庵の生涯を描いた、いわばノンフィクションである。
愚生は不明にして、愚庵の詳細については、ほとんど知らない。
ただ、数年前であろうか、東京新聞夕刊に週一度の出久根達郎の連載「書物浪漫」?だったと思うが、数回にわたって愚庵和尚についての記述があったので、興味は持っていた。
それは陸羯南や山岡鉄舟らとの交遊をめぐってのことであった。
本著は、俳人・川嶋隆史が描いた愚庵、つまり正岡子規との交遊についても「愚庵と子規」の項をたてたりして、多くを記述している。

   子規は愚庵の草庵を二度にわたって訪れている。最初は、愚庵が留守だったため逢えなかったが、二度目のときは愛弟子の虚子を伴っており、談深夜に及んだという。愚庵三十九歳、子規二十六歳、虚子は弱冠十九歳であった。

また、「再び愚庵と子規」の項では、「御仏に供へあまりのカキ十五」「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」「釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨てがたくて /つりがねの蔕のところが渋かりき」の句をあげて、

  愚庵に関する子規の句は四十句に迫ろうとしており、短歌を含めると、五十作品を超えている。個人として子規にこれほどの作品を詠ませたのは愚庵以外に見当たらないが、俳人子規が、歌人として変貌していく中で、先輩歌人愚庵の存在が大きかった証として、特筆してもいいであろう。
  このまま、柿の礼状が俳句だけで終っていたなら、子規の短歌革新はなかったかも知れない。湖村に宛てた愚庵の六首目の歌を示された子規は、短歌には短歌で応えるべきだという湖村の勧めに従って、短歌による二便というべき書簡を認めている。

ともあれ、愚庵こと天田五郎の生涯は波乱に満ちていた。磐城(いわき)平藩の15歳の武士だった五郎は戊辰戦争に敗れ、戦乱のなかで行方不明なった両親と妹をさがし歩き続ける。縁あって清水次郎長の養子となり、五郎は『東海遊侠伝』という清水次郎長伝を書き上げ発行する。その後、養子縁組を解き、34歳で出家、法名を鉄眼と称した。これら波乱の生涯は本著を読んでいただいてのお楽しみにしておこう。
 愚庵の辞世は、

    大和田に島もあらなくに梶緒絶え漂ふ舟の行方知らずも      愚庵

いわき市平 松ヶ丘公園には以下の歌を刻んだ歌碑がある、という。

   ちゝのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき   愚庵 空穂書

明治37年、死期を悟ってしたためた遺言には、「死後ハ遁世者ノ二付葬式ヲ成ス事ヲ許サズ」「又搭ヲ立テルヲ得ズ」として葬式も墓も建てられなかった。
五十一歳で没した愚庵は、ついに最後まで、探し求めた両親と妹にめぐり合うことはできなかった。


                 タイサンボクの花↑

2014年6月1日日曜日

小湊こぎく「ぶらんこや父が木を切る音がする」・・・


昨日は、奇数月、二か月に一度の「豈」句会(第118回)だった(於・白金台いきいきプラザ)。
次回は7月26日(土)午後1時~5時。参加はどなたでも自由。場所は地下鉄・白金台駅1分。
以下に、昨日の各人一句を紹介しておこう。

    ぶらんこや父が木を切る音がする        小湊こぎく
    なんじゃもんじゃから円空を彫り出す      川名つぎお
    蝸牛は禁書発行人である             山本敏倖
    我が我に会う平行の梅雨電車          杉本青三郎
    パライゾに日翳遍し桐咲いて           福田葉子
    かんたんな雲がゆきかう風五月         佐藤榮市
    不覚にも鎖骨が騒ぐ新樹風            羽村美和子
    神饌にそれぞれの位置青嵐            堺谷真人
    晩年の〇たずさえて来い我に来い        岩波光大
    風わたるマリアの月のクロワッサン       早瀬恵子   
    地図上に内地外地や時計草           大井恒行

       
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