2014年6月15日日曜日

浅沼璞著『西鶴という俳人』・・・


浅沼璞は、新連句形式「オン座六句」を提唱し、自らをレンキスト(連句人)と呼ぶ。最初の著書は、20年近く前に出版した連句論『可能性としての連句』(ワイズ出版)だった。真鍋呉夫と連衆でもあったので、真鍋呉夫捌きのの連句の会、さらには、彼に連れられて、自宅で呉夫夫人の手料理のみならず、お土産に漬物などをいただいたことなども思いだした。

『西鶴という俳人』(玉川企画・1500円+税)の「あとがき」冒頭に、

  本書は私の三冊目の西鶴論である。最初の『西鶴という方法)(鳥影社、二〇〇三年)では西鶴プロダクションのような浮世草子創作の場に俳諧宗匠(連句の捌)としての西鶴像を措定した。次の『西鶴という天才』(新潮社、二〇〇八年)では、その俳諧・宗匠西鶴の発想のルーツに発句(俳句)をすえてみた。周知のことだが、ほとんどが、署名がない浮世草子に比し、発句には作者名が記されている。果たしてこの批評体験は、浮世草子の無名性・匿名性を、俳諧師・西鶴の有名性・実名性へと還元することとなっただけではない。(中略)
 本書は読者層を鑑み、Ⅰ部を〈基礎編〉、Ⅱ部を〈応用編〉としている。けれど視点を変えれば、Ⅰ部が共時的〈俳句・小説篇〉、Ⅱ部が通時的〈俳諧・浮世草子篇〉ともなっている。私は〈俳諧師西鶴〉にこだわりがある一方で〈俳人西鶴〉の発句に俳句ジャンルの可能性を予感してもいる。どうしようもない断絶がそこにはある。

その基礎編だが、目次を見るだけでも、その分かり易く、前代的にアレンジされた様子がわかる。いわく第一章「 ケーザイ俳人の目」、第二章「フーゾク俳人の目」、第三章「ゲーノウ俳人の目」、第四章「エンタメ俳人の目」という具合である。愚生のように無知なものには、専門的でありながら、じつによく腑におちるように西鶴が描かれていると思う。引用したい箇所は多くあるが、そんな手間をかけるよりも興味のあおりの方々には気軽に手にとっていただいくのがいいだろう。値段も手ごろである。
したがって、ここでは、下記引用を除いて、Ⅱ部の応用編も目次のみを参考に挙げておくにとどめよう。因みに第一章「独吟俳諧考」、第二章「発句考」、附録として「連句にみる江戸の生活」・西鶴略年譜とある。

   すゞみ床や茶屋淋しくも月夜に釜(かま)

六・七・六音の字余り。「すゞみ床」(涼み床)で夏。「月夜に釜」は諺「月夜に釜を抜かれるの略語で、明るい月夜に釜を盗まれるという意味から、油断しきった状態のたとえである。その諺をもじりながら、油断しつつも「月夜に釜を抜かれる」ことない間の抜けた淋しさを描写している。(中略)
 なお誤解ないようにふれておけば、この俳句の「釜」は今でいう男色のオカマとは関係がない。当時、舞台にでる前の修行中の歌舞伎子を陰間(かげま)といった。それがだんだん歌舞伎から離れて男色専門の少年をさすようになり、さらにカゲマをカマと略すようになるーこれがオカマの語源の有力説である。だからオカマという俗語は、まだこの時代には成立していなかった。

                                           カキツバタ?↑

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*閑話休題・・
浅沼璞は1957年、たしか大島の生まれでかの浅沼稲次郎と親戚と聞いた。確かに横顔は、若き日の稲次郎という感じでそっくりだった。その浅沼璞はかつて、大昔の話だが、合同労組所属の某高校の組合の書記長をしていた時代に、愚生もまた地域合意同労組の組合活動つながりで知り合うことにもなった。ただ、最初に、彼にあったのは第一回「俳句空間」評論賞佳作入選(1990年6月)以後、何度か彼に原稿依頼をした縁による。
そういえば、今日は60年安保闘争、国会突入闘争の犠牲となって虐殺された樺美智子の忌日だ。
愚生はまだ小学生だった。

シモツケ↑

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