2014年6月4日水曜日

川嶋隆史『天田愚庵の生涯』・・・


本著『天田愚庵の生涯』(文學の森)は、福島県いわき市生まれの川嶋隆史が、これも同じ郷土の生まれの天田五郎(旧姓・甘田久五郎)こと天田愚庵の生涯を描いた、いわばノンフィクションである。
愚生は不明にして、愚庵の詳細については、ほとんど知らない。
ただ、数年前であろうか、東京新聞夕刊に週一度の出久根達郎の連載「書物浪漫」?だったと思うが、数回にわたって愚庵和尚についての記述があったので、興味は持っていた。
それは陸羯南や山岡鉄舟らとの交遊をめぐってのことであった。
本著は、俳人・川嶋隆史が描いた愚庵、つまり正岡子規との交遊についても「愚庵と子規」の項をたてたりして、多くを記述している。

   子規は愚庵の草庵を二度にわたって訪れている。最初は、愚庵が留守だったため逢えなかったが、二度目のときは愛弟子の虚子を伴っており、談深夜に及んだという。愚庵三十九歳、子規二十六歳、虚子は弱冠十九歳であった。

また、「再び愚庵と子規」の項では、「御仏に供へあまりのカキ十五」「柿熟す愚庵に猿も弟子もなし」「釣鐘といふ柿の名もをかしく聞捨てがたくて /つりがねの蔕のところが渋かりき」の句をあげて、

  愚庵に関する子規の句は四十句に迫ろうとしており、短歌を含めると、五十作品を超えている。個人として子規にこれほどの作品を詠ませたのは愚庵以外に見当たらないが、俳人子規が、歌人として変貌していく中で、先輩歌人愚庵の存在が大きかった証として、特筆してもいいであろう。
  このまま、柿の礼状が俳句だけで終っていたなら、子規の短歌革新はなかったかも知れない。湖村に宛てた愚庵の六首目の歌を示された子規は、短歌には短歌で応えるべきだという湖村の勧めに従って、短歌による二便というべき書簡を認めている。

ともあれ、愚庵こと天田五郎の生涯は波乱に満ちていた。磐城(いわき)平藩の15歳の武士だった五郎は戊辰戦争に敗れ、戦乱のなかで行方不明なった両親と妹をさがし歩き続ける。縁あって清水次郎長の養子となり、五郎は『東海遊侠伝』という清水次郎長伝を書き上げ発行する。その後、養子縁組を解き、34歳で出家、法名を鉄眼と称した。これら波乱の生涯は本著を読んでいただいてのお楽しみにしておこう。
 愚庵の辞世は、

    大和田に島もあらなくに梶緒絶え漂ふ舟の行方知らずも      愚庵

いわき市平 松ヶ丘公園には以下の歌を刻んだ歌碑がある、という。

   ちゝのみの父に似たりと人がいひし我眉の毛も白くなりにき   愚庵 空穂書

明治37年、死期を悟ってしたためた遺言には、「死後ハ遁世者ノ二付葬式ヲ成ス事ヲ許サズ」「又搭ヲ立テルヲ得ズ」として葬式も墓も建てられなかった。
五十一歳で没した愚庵は、ついに最後まで、探し求めた両親と妹にめぐり合うことはできなかった。


                 タイサンボクの花↑

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