2015年1月18日日曜日

筑紫磐井『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉』・・・



著者・筑紫磐井は「まえがき」に言う。

本書の結論は「辞の詩学と詞の詩学である。それは難解(前衛)俳句に由来するものだが、しかし、広範な現代俳句・伝統俳句に適用もでき、未来の俳句にも通じる新しい詩学だと考えている。

ということは、目次を見ると、とりわけ、書下ろしの「第8章 阿部詩学の拡大―兜太・龍太・狩行」の中の項目、「1、阿部詩学の展開 (1)『辞の詩学』の吟味 (2)『詞の詩学』の可能性と統合」の部分を読めば、本書の内容はほぼ把握できるということかも知れない。そして、「あとがき」には以下のように述べている。

本書で、「辞の詩学と詞の詩学」として掲げた新しい詩学は、これからの俳句の根拠となってよいと思っている。若い世代を含む新しい俳句には、新しい詩学が望ましいというのが私の考えである。(中略)
あらゆる(「前衛」を含めての)目的は、(特に定型詩にあっては)日本語をどのように改造するかではないか。もし「前衛」がそれを達成できなかったのであれば、、新しい詩学が達成すればよいと思っている。だから、表現史と呼ばれるものに不満なのは日本語を変えるダイナミズムに欠けることだ。秋桜子も、誓子も、草田男も赤黄男もささやかながら日本語の改造に貢献してきた。それを説明できるものにしたい。もちろんそのようなことばかりがこの詩学の出来ることではないし、そのようなことをこの詩学に期待していない人もいるから断言はしないが、可能性はあると信じたいと考える。
 逆に言えば、俳句は思想を表現しなければならないわけではない。思想を表現しても悪くはないが、俳句の視野はもう少し広い。(思想も含めて)表現できる日本語を期待したいのだ。そろそろ「現代俳句のテーゼ」をもう一度考え直す時期にきているようだ(もちろん俳句上達法の時代であっても困るが)。

こうして『定型詩学の原理―詩・歌・俳句はいかに生まれたか」(ふらんす堂・平成13年)から『伝統俳句の探求〈題詠文学論〉―俳句で季語はなぜ必要か』(ウエップ・平成24年)を経て、本著『戦後俳句の探求〈辞の詩学と詞の詩学〉-兜太・龍太・狩行の彼方へ』(ウエップ)までを貫いているのは、何あろう当初からの筑紫磐井〈定型詩学〉なのである。とにかく、新しい俳句には新しい読みが必要だ、という摂理は動かない。

時代の状況のなかから創出された概念の二項の定義を比較しながら、駆使する論調は、筑紫磐井の得意とするところであるが、本書の基本的なタームは「難解」=「前衛」。しかし、表記については「前衛(難解)」ではなく、「難解(前衛)」とあることをみても、展開する論理は周到である。そしてすべては相対的に論じられる。また、意外に面白く、興味深く読めるのが、本文に付された、いささか長い「注」である。
ともあれ、筑紫磐井の卓見あふれる本著をこれ以上紹介するのは愚生の手に余る。
是非の一読をお薦めし、堀切実、川名大との応酬も本書に色を添えているとだけ言っておこう。



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