2015年2月19日木曜日

林桂「悼・三橋敏雄/生き死には繰り返しません年の暮」・・・



掲出の句は、この度、林桂が上梓した句集『ことのはひらひら』(ふらんす堂)の「広瀬川ひらひら―初出『俳句』(5月号)2002(平成14)年5月1日」からのものである。正確に記せば各漢字にはルビが振ってある総ルビの作品。
      
        悼・三橋敏雄
     (い)き死(し)には繰(く)り返(かへ)しません年(とし)の暮(くれ)    林 桂

三橋敏雄は、この句の発表された前年の暮、2001(平成13)年12月1日に逝去した。享年81。悼句の下敷きは当然ながら三橋敏雄「あやまちはくりかへします秋の暮」に拠った句といえよう。並んでいる次の句は悼・佐藤鬼房である。鬼房は三橋敏雄が亡くなって約一ヵ月半後、2002(平成14)年1月19日に続けて死去した。享年82。このとき、三鬼のいわゆる三人の弟子のなかでは、二年後に亡くなる鈴木六林男を残したことになる。

        悼・佐藤鬼房
    (よ)の空(そら)を魂(たま)の容(かたち)に焚(た)き火(び)かな

愚生、勝手に「魂の容に」は、佐藤鬼房「壮麗の残党であれ遠山火」の句を想起した。

『ことのはひらひら』は、林桂一行形式の句集(といっても今回の句集のほとんどに詞書が付されているのだが)としては『銅の時代』(牧羊社)以来、28年間38編432句が収められているという。単独句集の序数では林桂第6句集ということだ。林桂の長い後記を読んでいただければ、この間の経緯は詳細に記してある。つまり、この28年間多行形式の俳句を試みながら、同時に多くは、句に詞書を配した方法意識に貫かれた句を書き続けていたことが理解できる。句の収載は編年順。例えば、「ひらひら」の初期に書かれた「1985・日常のひらひら」では、

 若書の方法から自由になることであり、刻み込むように書き残す意識から自由になることであった。「俳言」とは「時代」に添って生き消えようとする言葉だったのではないか。そのように現状に生き生きと働きながらその寿命の短い言葉で書いてきたらどうかということであった。目的地のない遁走意識だけが明瞭だったと言ってよい。取りあえず、「前書」で、「日常」という俳句空間を作って俳句に貼り付けて、一句自立の俳句文脈を異化させようと考えたのである。一句自立の願いを自ら揶揄するようにしながら、俳句に流しこもうとしたのである。「ひらひら」は、その記号として貼り付けた咄嗟の思いつきの言葉だった。

と書き留めている。例えば、「時代に添って生き消えようとす言葉」には、林田紀音夫が現代仮名遣いで俳句を書くのは、現代の猥雑さに賭けるためだと記したことにどこかで通底する心性なのかも知れない。とはいえ、林桂にとってもまた、俳句形式と言葉の関係の一回性に賭ける言葉の責め方については、多行表記と一行表記では異なっているのだろう。
そして、高柳重信が一行の句を山川蟬夫名をもって書かざるをえなかったようにはその道を回避するべく、林桂は一行の俳句をもう一つ別の世界に連れ出してみたかったということではなかろうか。多行形式もいまだ未踏破のものであるならば、一行の句もまた未踏破のものなのである。

    死亡退学届。手続きに両親の元に行くのが辛くて、一人っ子だしね、とクラス担任は言う。
  (くず)の葉(は)の起(た)ちあがらんとして斜(なな)

    告別式の夜、僕は飲んだくれた。ありがとう。竹内。
  胡桃橡(くるみとち)の実(み)(ほ)しくてならぬ日暮(ひぐれ)かな



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