2015年8月30日日曜日

大井恒行「集団的などてすめろぎのぞまず夏」・・・



「8.30国会10万人 全国100万人大行動!ー戦争法案廃案!安倍政権退陣!」(戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)の国会正門前の集会に参加すべく、数えて40年ぶりに会う京都での学生時代の友人と地下鉄は丸の内線・霞が関2番出口で待ち合わせをした。
果たしてうまく会えるのだろうかという心配があったが、(まあ、今は携帯電話があるので何とか・・・)、しかし、2番出口は警察によって閉鎖されていて、すべては4番出口に誘導されていた。
先日、現代俳句協会講座・高屋窓秋の愚生の講演を聞きに来てくれていたので、風貌は覚えているものの、40年ぶりにスクラムでも組むかと思えば心もとない。とにかく、2番出口に警察官と肩を並べて、待つことにした。
そこに「こんにちわ、前橋から来ました。黄色い案内板のしたに顔が見えました!」と思いがけない水野真由美からのショートメールが入った(残念ながら、会えはしなかったが)。
そして、その友人とは、たった4,5メートルしか離れていなかったにも関わらず、なかなか見つけられず、やっと10分後に会える始末だった。
さらに地下鉄の改札口を出て、4番出口にたどり着くまでに、ほぼ一時間を有してしまったのだ。駅の出口の階段も規制されて、エスカレーターのみの使用だった。さらにそこから国会正門前にたどりつくのに、ほぼ一時間、止んでいた雨も小雨ながら、間断なく降り出していた。
ひたすら、人混みに押しつ戻されつしながら歩くのみ・・・。
金子兜太揮毫の「アベ政治を許さない」のプラカードを持っている人も多い。


                  警察官によって封鎖された霞が関2番出口↑
                  混雑で身動きが取れない!

その友人と帰路に食事をしたが、「ぼくは戦争体験はないが、小さいころから戦争体験を持っている母親から、戦争はいけない!悪い!と言われて育ったから、理屈じゃなくて体に、戦争はダメだって沁みついているんだ。もう激しい行動はできないが、若い人たちが、そういう行動をしていると応援したくなるんだよ・・」と呟いたのが心に残った。
9条を護持して、国際戦争支援法などは廃案にして、日本は、他の諸国間の戦争に関係しない永世中立国宣言でも掲げて、原発をなくし、美しい国造りに邁進してもらいたいものである。

    集団的などてすめろぎのぞまず夏         恒行



                  ヘクソカズラ(ヤイトバナ)↑

2015年8月28日金曜日

宮坂静生「柞(いす)の木に笛吹童子籠るてふ」(『草泊』)・・・



宮坂静生句集『草泊』(本阿弥書店)は2013年の一日一句の俳日記である。
二年前の本日、つまり8月28日の句が掲出の句なのだ。すべてに前書が付されている。ちなみに掲出の句の前書きは「八月二十八日(水) 『樗堂と一茶』稿まとめる。西川徹郎より大冊二冊」とある。
現代俳句協会会長の要職にあって、全国を飛び歩いている様子が如実にわかる。また、句会の出席も多く、一日に二回、三回というのもある。
愚生よりほぼ一世代上の60年安保世代だからだろう。例えば次のような場面にも出くわす。

    一月五日(土) 「一九八九年の丸山真男」(「すばる」二月号)を読む。
 人間を襤褸となすな読始め

ああ、丸山真男に影響を受けた世代なんだな、と思う。愚生などの70年安保世代は吉本隆明か埴谷雄高というところだろう。また、5月25日(土)の「岳」創刊三十五周年記念大会には愚生も出席している。それには、
  
    五月二十五日(土) 「岳」創刊三十五周年記念大会軽井沢。三次会まで。
 夜叉五倍子(やしゃぶし)の滴り集ふ火山麓

とあった。愚生好みのいくつかを以下に挙げておこう。

    六月二十日(木) 帰松。ふと葉山在、晩年の女優のことを。
 杉村春子西日の戦後忘れきし

    七月一日(月) 高岡修の案内で薩摩半島長崎鼻まで。
  知覧まで草みちをゆく七月は

    八月十五日(木) 兄弟たち盆見舞いに来る。
  敗戦夜闇いきいきと大櫟

    十二月七日(土) 長野へ。マンデラさん(南アフリカ元大統領)の死
  アフリカの大地が捧ぐ冬茜




2015年8月27日木曜日

渡辺誠一郎「セシウムは思惟より生まれソーダ水」(「現代俳句」9月号)・・・



「現代俳句」9月号は「第70回現代俳句協会賞 渡辺誠一郎特集」である。不明にして、愚生は今年度の現代俳句協会賞受賞者を本誌によって、遅ればせに、初めて知った。
選考委員評を読むと、順当に仲寒蟬『巨石文明』、対馬康子『竟鳴』、渡辺誠一郎『地祇』が残ったらしい。どうやら対馬康子『竟鳴』は決戦投票で4対3の一票差で受賞を逃している。
ともあれ、渡辺誠一郎に祝福を送ろう。
久しぶりに受賞者の年齢が少し若くなった感じだ。
「受賞のことば」には、

   このたびの受賞を励みに、今後はおのれの存在を凝視して詩想を深め、「地祇」のごとく目線を限りなく低くしながら、不器用ではあるが、地に足をつけた世界を綴って行きたいと思っている。

とある。目指すべき方向は定まっているのだ。期待して、さらなる展開を待ちたいと思う。とはいうものの愚生自身の体たらくを何とか自ら励まさなければ・・・

渡辺誠一郎(わたなべ・せいいちろう) 1950年宮城県塩竃生まれ。

    影の数人より多し敗戦忌        誠一郎 
    父の日の父の仕方で米を研ぐ
    地の底に行方不明のさくら咲く
    東京に子猫のような余震くる
    死んでなお人に影ある薄暑かな




                    タデ↑

2015年8月26日水曜日

鈴木純一「戰爭をなくす戰爭をみなへし」(「LOTUS」第31号)・・・



鈴木純一の句は特異でありながら、その置かれている言葉の秩序は正当に、実に伝統的である(読者への伝達性を担保している)。
掲出の句「戰爭をなくす戰爭をみなえし」も表記は円形である(つまり、どこを起点にして読もうと読者の自由である。愚生は掲出句のように読んだまでだ)。
他にも、

    あはれみ 【憐憫】 命が限りなく無限に近づいた
                時、それが風化となす角度。     純一 
     
といった句もある。あるいは、
 
    持たせやるほたる袋に二つ三つ

以上、表記の参考までにと思い、写真上に収めた。その鈴木純一の句集『平成物語 オノゴロ』(邑書林)について今泉康弘は「『BALSE』と共に、もっと高く評価されるべき句集である」と「LOTUS」作品評(第30号より)で述べている。

今号の「LOTUS」の注目は、もう一つ、発行人・酒巻英一郎の三行書俳句が特別作品で巻頭を飾っていることだ。現在、多行の俳句を書く俳人はごく少数であるが、それでもその中で、最初から最後まで三行を貫徹してきた俳人はいないと思われる。
高柳重信の到達した多行俳句が4行であるとすれば(高柳重信の4行形式の継承者はけっこういる)、それと対峙しながら(一行の俳句も含めて)、飽くなき三行書きを貫ぬき、書き続けてきたのが酒巻英一郎である。
いくつかを挙げておこう。

   いしばしを
   しばしひろはば
   かきつばた                          英一郎

   嗅ぎあてて
   帰する春夜の
   陰を噛む

   おほでまり
   何れ何くに
   おのれなし

   鶴翼や
   後手に廻りて
   花の陣

   黒百合の
   直目に萼を
   留めおかむ





    

    

2015年8月25日火曜日

大本義幸「三月の風よ集まれ釘に疵」(『俳句新空間』NO.4)・・・



『俳句新空間』NO.4、2015.夏号は、「鬼」と題する花尻万博の第2回攝津幸彦賞受賞後第二作の作品として「詩客」よりの転載作品。さらに筑紫磐井の「八月の記憶ー従軍俳句の真実」題する、この間の川名大とのやりとりが掲載されている。北川美美の編集後記には「『日盛帖』と名付けた作品詠に今号21名が参加」とあった。
その「日盛帖」の中から掲出した句が、大本義幸「三月の風よ集まれ釘に疵」の句である。直後の句にも「櫻三月死者たちは裸で歩く」が置かれているところをみると、東日本大震災についての詠とも読める。もちろんそうでなくてもよい。「釘に疵」が普遍性を獲得していよう。
「日盛帖」参加者の中から、一人一句を・・・・

  痴呆って症なのかしら琵琶熟れる      網野月を
  わたしには声がない世界がみえない     大本義幸
  願ひ事書いて燃やされ雲の峰        神谷 波
  藤の昼銹びしらんぷを地に置きぬ      坂間恒子
  いをかはづ降つてうるほふばかりなり     佐藤りえ
  くちびるにきんぎよのおよぐばすつあー     田中葉月
  風雨はげし骨離れよきほつけ食ひ      津髙里永子
  虹描く縄跳びの子ら基地超えて       豊里友行
  光化学スモッグの中誰もが汗         仲 寒蟬
  傘さして道遠くせり夏木立          中西夕紀
   田一枚植ゑて立ち去る柳かな(山の裾まで燕追ひきて)
  懲役の無期が有期に麦の秋         夏木 久
  生意気な目鼻となりぬ烏瓜          秦 夕美
  戦没の墓の月日や苔の花           福田葉子
  沢胡桃支那胡桃梅雨晴れ間         ふけとしこ
  戦前はいつの戦後ぞ養花天          堀本 吟
  曇天の残響豊か囀れる            前北かおる
  雨おとこ祭囃子を雨に乗せ          真矢ひろみ
  晩夏光ガラス細工の象溺る          渡邉美保
  ハクイキガ ホタルビトナリ ハハキトク     もてきまり
  死に顔のまま生きてゐる上司・部下      筑紫磐井
  梅干しの肉こそよけれ旅人よ          北川美美   






2015年8月23日日曜日

久保東海司「くらがりの海くらがりの星涼し」(『風鈴』)・・・




久保東海司は昭和2年11月29日生まれ。句集『風鈴』(文學の森)の奥付の発行日は,久保東海司が米寿を迎える日、本年11月29日となっている。
現在は高橋将夫主宰「槐」同人だが、句歴70年を記念しての上梓とあるから、「槐」を創刊主宰した岡井省二の弟子でもあった。
「まえがき」によると、青年俳句誌「みつばち」をガリ版刷りで発行したのが昭和16年4月のことだという。
申し分ない句歴だが、田村木国の「山茶花」の植原抱芽を選者に迎えて、「みつばち」は72号まで継続したとあった。
昭和16年4月といえば、新興俳句弾圧事件、第4次弾圧により細谷源二が逮捕された昭和16年2月5日の直後でもある。
ところで、愚生は、生前の岡井省二に一度だけだが、お目にかかったことがある。記憶が少しあいまいだが、確か現代俳句協会青年部ができた直後のシンポジウムのパネリストになっていただいたのではなかろうか。その後、『岡井省二の世界-霊性と智慧』 (北宋社)にも執筆の機会をもらい、その縁で現在まで「槐」の恵送をしていただいている。

     羽子板の撞き痕のこし世を去りぬ          東海司
     囀りのかたまつてゐる大和かな
     揺れ易きものには乗らぬ鬼やんま   
     質草に蚊帳あるむかし初ちちろ
     息入れて折鶴翔たす秋の空
     天涯に星の私語あり冬木立
     結界の石みな佛雪を置く
     山眠りかけしを鶴の呼び起こす  



                    シモツケ↑

2015年8月21日金曜日

三橋敏雄「窗越しに四角な空の五月晴」・・・



遠山陽子「弦」38号は、先般上梓された句集『弦響』の特集である。
角谷昌子、永島靖子、前田弘、春田千歳、安西篤、栗林浩らが執筆している。他に高橋龍と中村裕のエッセイ。
ともあれ、最後に「三橋敏雄を読む(1)」と題して、まず16句が取り上げられている。
「窗越し」の句については、

 十五歳の少年の悲しみを覗き見るような一句だ。更に言えば、視覚対象物は焦点を絞って切り取ることによって、把握はより強くなるという俳句の骨法を、敏雄が本能的に心得ていたことに驚かされる。(昭和十年 十五歳)

と述べているが、編集後記によると、どうやら「敏雄百句を読む」の構想らしい。「通読するとミニ敏雄論になるようにしたいと思っている」と心意気が書かれている。遠山陽子の情熱に敬服の念を禁じ得ない。


    つれあひだつた男施設で死にき春       陽子 『弦響』以後
  老人に老人の夢金魚玉
  いなびかり父も柱も傾きぬ
  晩年がもつとも長しちる公孫樹




2015年8月16日日曜日

本日は山本紫黄の忌日

※テスト投稿のため記事内容ともに北川美美が投稿。



大原女風にサーフボードをかづく夕  紫黄  




 私は、そのころ大阪府下の香里園に住んでいた三鬼の意をうけて、翌三十一年の春先の或る日、正午過ぎに、前記支部の月例句会場(注:「断崖」東京支部)を訪ね当てた。私と他の参会者たちとはもちろん初対面であった。その日のことか、あるいはその後のことか、もはや記憶はさだかでないが、私と同様、病院外部からの出席者数名の中に、今は本句集の著者である山本紫黄がいた。
 
 夕刻、散会後、紫黄とは帰る方向が同じとしれた。最寄りの小田急線千歳船橋駅から、一応、新宿へ出ることとした。その車中、私は紫黄に、これからチョット一杯イカガデスと言ってみた。彼はすこしもためらわなかった。そのへんの印象だけはまことに鮮明である。 
 私が知る前の紫黄は、昭和二十四年に、父、山本嵯迷の勧めに従い作句を開始。ゆかり深い「水明」に拠って長谷川かな女に学んでいたが、傍ら西東三鬼の俳句に魅せられ、昭和三十一年に入ってすぐ、前記の「断崖」東京支部句会にも顔を出すようになったのだという。そして「断崖」本誌の三鬼選句欄に投句をはじめるのだが、このことは余人の場合はいざ知らず、「水明」直系の紫黄の身ともなれば、非常な決意を要したにちがいない。思えば心機一転して改めて自身の俳句の方途をさぐろうという志の問題に帰結するにしても、なみなみならぬ態度であった。
(山本紫黄と私/三橋敏雄) 山本紫黄第一句集『早寝島』



大高弘達『西東三鬼の世界』より




2015年8月15日土曜日

三橋敏雄「戦争の個個の残像流れ星」(信濃毎日新聞平成9年8月15日)・・・



三橋敏雄自身が切り抜いた新聞のスクラップ(夫人の三橋孝子さんからお預かりした)を眺めていたら、偶然にも本日付け(8月15日)の信濃毎日新聞の村上護「けさの一句」欄に出くわした。その句が、

    戦争の個個の残像流れ星      三橋敏雄

である。今年は戦後70年ということもあって、ジャーナリズムはこぞってその特集を組んでいる。が、しかし、村上護の言を借りれば「それを語る体験者もだんだん少なくなってゆく。当の個人においても体験は風化する。生々しい戦争という大テーマは問題になりにくく、残像のごとき体験談ばかり。それもいつかは消失してしまうのだ。流れ星のごとく、あれよあれよという間もなく燃えつきてしまう。そんなむなしさを詠めば抜群、「峯雲はみな新しや小日本」「爾来五十余年無駄死口惜し戦友忌」の作など」(村上護・作家評論家)とするどい。
こう記した村上護も亡くなってはや二年が経とうとしている。
三橋敏雄にはほかに昭和20年8月2日未明の八王子市の大空襲を契機に詠んだといわれる「いつせいに柱の燃ゆる都かな」の句がある。「さいわい全員が無事だったが、街の中心にあった家は、真っ先に焼け落ちた」(遠山陽子『評伝 三橋敏雄』)とあった。


                  サルスベリ↑

2015年8月14日金曜日

武藤雅治「地図にない国家(くに)を想へば沖縄忌」(『花蔭論』)・・・




あたかも章立てのように挿み込まれているモノクロの森崎竜次の写真が本句集の装丁のシンプルさと呼応していて良い。
本句集の出自が少し変わっている。著者の「覚書」によると、

 六月十三日から昨日までの、約二週間の躁鬱の成果、ここに創作された言葉の断片を、句集と称するにあ、少なからず後ろめたくもあるが、棄てがたい、いましがたの懐旧として纏めた次第である。読者諸賢も、忌憚のないご批評をいただければ幸いである。
         
             二〇一五年 六月二九日

とある。著者は1951年神奈川県生まれ。歌集、評論集もある。現在は歌誌「月光」会員とあった。
作品は、いわゆる多行形式の句で、多くは高柳重信の四行書きを踏襲している。


    慰安夫も
    ゐない
    ゐないと
    兵隊が                     雅治

    地図に
    ない
    国家(くに)を想へば
    沖縄忌

    薄目の
    眼の
    老犬
    白き
    花芙蓉
 
    淡竹(はちく)とふ
    筍
    旨し
    雨後の月

*閑話休題
   先日、昔の仲間より送られてきた「止めよう!辺野古埋立て 9.12 国会包囲」行動のチラシを送ってきたので、本『花蔭論』(桃谷舎)のなかの句「辺野古にも/行かず/紫陽花/瓶に刺す」に触発されたので、掲載しておく。今や国会周辺は、かの60年安保闘争以来の抗議行動で連日埋め尽くされているらしい(愚生は情けなくも家の近くを散散歩し、たまに横断歩道の信号の変わり目あい、急ぎ足のときに安保粉砕!闘争勝利!とつぶやいて息を切らせながら勢いをつけて渡るのみ)。






   おはやうと
   こゑを
   かけられ
   さくあした

   ふたりぶん
   かんをけが
   たりないと
   いきてゐる

   ひとさしゆびで
   ひとをさした
   ことは
   ある


2015年8月12日水曜日

大岡頌司「ともしびや/おびが驚く/おびのはば」・・・



「大岡頌司 没後十年記念」、〈酒巻英一郎 大岡頌司文学を語る〉が総合文学ウエッブ情報誌「文学金魚」に掲載されている。
酒巻英一郎は現在、同人誌「LOTUS]発行人、「豈」事務局長を務めている。18歳頃より俳句をはじめ金子弘保に多くを学び、大岡頌司に私淑、大岡頌司唯一の弟子と言われ、三行書きの俳句を実践している。『大岡頌司全句集』(浦島工作舎)を編纂。比較的最近作に、

     詳らかに
     具えて
     春の曙は          英一郎

     寒暁を
     そらにことばの
     絶巓を

 などがあるが、作品、散文を含めてすべて旧かな、正漢字で書く俳人である。
ともあれ、インタビューのなかで語っていることで、俳句を一行で書くことと、多行で書くことの機微について興味ある発言が随所に見られる。例えば、

  俳句には「一行で立つ」という言い方がありますが、比喩的に言うと多行俳句形式はそれを横に寝かせちゃうわけです。一度寝ちゃうと逆になかなか立ち上がれないということはあります。

また、大岡頌司句集『花見干潟』については、

 それまで、日本文学が到達していなかったレベルにあると思います。「もしも/もしもと茅屋根の/百の雫を軒として」、「妹がひとりの引潮の/潮干の径を/朝へ帰らむ」、「現は夢のけむりぐさ/すてた山椒に/乳母ら捨てらる」、「今は花なき花いちぢくの/日は龍宮の/杖のつりざを」、「落日はいま/青き棗の/日中を撮む」とかね。

これ以上に、興味のある方は、以下でご一読を・・・・

     http://gold-fish-press.com/archives/34977

大岡頌司(おおおか・こうじ)は、1937年広島県賀茂郡生まれ、2003年没。



                  オオガハス↑

2015年8月11日火曜日

大庭紫逢「現代川柳考・20」(遺稿)・・・




どこかで、大庭紫逢の訃を聞いたような気がしていたが、愚生が毎号、楽しみに読んでいた「都市」に連載されていた「現代川柳考」に「遺稿」とあり、やはりそうだったのか、空耳ではなかったとわかった。
最終稿の冒頭は「セコムしていますアコムも借りてます」の句について杉浦日向子の次の言を引いて記していた。

  「何のための生まれてきたのかと問う人もいるが何のためでもいい、とりあえず生まれてきたのだから今の生があり、死があるだけのこと。余計なことを考えるとご飯がまずくなります」。
  この句もあまりに他愛ないと言われればそれまでだが、時にはこうした句もあってよいのではなかろうか。
  
その「都市」8月号に主宰の中西夕紀は、追悼句を寄せている。

         悼 大庭紫逢氏
    釣り落とす渓の若鮎追はれけり         夕紀

大庭紫逢は昭和22年生まれ。去る6月4日、肝臓癌のため逝去。享年67。哀悼。

    山が山恋せし神代初手斧        紫逢



                  バラ↑

2015年8月10日月曜日

加藤国子「原爆の碑に触れて来る夏の雨」(『能面』)・・・



加藤国子句集『能面』(角川書店)の掲出の句には、「長崎」の前書が付されている。奇しくも今年は被爆70年、敗戦70年の節目の年で、ジャーナリズムや俳句総合誌などの8月号はすべてと言ってよいほど戦後70年特集であった。
ところで、著者加藤国子は愛知県の県立高校の国語教師であるという。寺島初巳の序に「『俳句甲子園』に幸田高校を初出場に導いた」とあったので、そういえば、愚生が現代俳句協会のジュニア俳句祭に参加した折に、幸田高校の生徒たちの作品が、他の投句に比べると、出来の良い完成された句が多かったという記憶がよみがえったのである。また、生徒たちが、句の感想を述べる姿にも、まったく臆していない印象があったのは、どうやら加藤先生の指導の賜物だったのかも知れない。
今年も、現代俳句協会の第12回ジュニア俳句祭は来たる9月13日(日)に江東区教育センターで開催される。
以下に、句集からいくつか挙げておこう。因みに句集の帯文は中原道夫。引用された句は「小手毬
の土塊に今触れてゐる 国子」。

    名も知らぬ鳥は真白く凍てしごと       国子
    天国につながる塔や冬畳
    筋書きの変はらぬ村の祭かな
    更衣新任教師声高に
         長崎
    原爆の碑に触れて来る夏の雨




                王子駅 北とぴあ前↑

                               
                                    ムカゴ↑

2015年8月9日日曜日

第46回原爆忌東京俳句大会・・・


                講演する宝田明氏↑

昨日、8月8日、午後一時より、王子の北とぴあペガサスホールに於いて、第46回原爆忌俳句大会(主催・原爆忌東京俳句大会実行委員会)が行われ、約100名が参加した。
記念講演は「俳優として、人間として」と題して、俳優の宝田明。昭和9年、旧満州ハルピン生まれ。自身、自らの体にソ連軍の鉛の弾を受けたり、戦時、戦後の体験を、時に中国語を交えながら、戦争の悲惨さを語り、憲法9条の理念の希望を語った。
愚生の選んだ特選句は、約40数名の大会選者のどなたも選ばれなかった句だが挙げておきたい。

   ヒロシマの古稀にわが古稀貼りつき夏        吉次 薫

以下に各大会賞作品を紹介しておこう。

  家族みな同じ日付けの墓洗う     宮脇木脩 (東京都知事賞)
  戦争がノックしている子供部屋    柘植秋男 (現代俳句協会賞)
  何もなき空を見てをり原爆忌     野口英二 (第五福竜丸平和協会賞)
  生きるとは語り継ぐこと原爆忌    杉野秋耕死 (東京都原爆被害者団体協議会)
  老母まだ聴える雨の日の軍靴    原 京 (口語俳句協会賞)
  人の世の足音を聴く被爆の樹    小橋啓生 (新俳句人連盟賞)
  蟻が這ういまだ遺骨の無き墓標   谷川彰啓 (平和を愛する俳人懇話会賞)
  純愛のままの骨です夾竹桃     小山 淑 (全国俳誌協会賞)



                                  アカボシゴマダラ蝶↑

2015年8月7日金曜日

岩城久治「実作教室 俳句」(「京都新聞」)・・・


               京都新聞 8月3日、岩城久治「実作教室 俳句」

京都新聞連載の岩城久治「実作教室 俳句」の記事が送られてきた。愚生の句を、記事中の例句にしたからというものであった。
それには、岩城久治が俳句を始めた昭和32年、つまり約60年近く前に西東三鬼の「算術の少年しのび泣けり夏」の「とんでもない文体に出くわしたものである」と記されてあった。
さらにそのコラムの終りに、

 われわれ俳人は、俳句、十七音の枠組にこの「夏」を取り入れて無関係な関係性の中でこの一句を止揚して受容する、あるいは創作する俳句の方法論を用いている。近刊の総合俳句誌にも、
  山々のかたちは似て非なり晩夏      鷹羽狩行
  集団的などてすめろぎのぞまず夏     大井恒行

例句になったのは、もちろん嬉しいことであったが、その8月3日の京都新聞の俳壇の選者の一人に坪内稔典の名があり、かつ、「*豊田都峰急逝のための代選をお願いしました」とあって、迂闊にも「京鹿子」主宰だった豊田都峰の逝去をこの時まで知らなかったのだ(去る7月15日、享年84)。現代俳句協会の総会や愚生のかつての仕事でお世話になったし、「京鹿子」の旧い知人も幾人かいる。
「清潔で端正な抒情句を彼はたくさん残した」とは坪内稔典評。哀悼。

   山見えぬ日も山へ咲く桐の花     都峰  
 


                     ムクゲ↑

2015年8月6日木曜日

久保純夫「戦争の真空をゆく蝸牛」(「儒艮」14号)・・・




「儒艮」(JU GON)14号は特集・久保るみ子。他は久保純夫の「石垣島句日記4」(第五回 二〇一四年一〇月二五日~一一月一日)。毎日、50句以上を書き留めている。今回の総数は575句と記してあった。愚生の10年間分くらいを一週間もたたないうちに仕上げるのだから、ほとんど自動記述に近いのだろう。読む方は少し力を抜いて読まないと狂ってしまいそうだ。有季定型こそ、いや定型こそ自由の源泉というべきか。加えて、他にも「櫻・MANDARA・木蓮ー二〇一五年・津山」と題して140句以上・・・。
なにより、今回は、久保純夫が先立たれた妻の久保るみ子(2011年没)100句を二冊の句集『さふらんさふらん』『美しき死を真ん中の刹那あるいは永遠』(久保純夫との共著)から選び。さらに、句集未収録句を補遺として、新・久保るみ子の100句を選んだ。加えて、久保るみ子俳句英訳集(英訳された句はもちろん久保純夫の句、写真撮影されたノートも併載)。
英訳された句では久保純夫「戦争の真空をゆく蝸牛」は佳吟、「子に語る子の物語アマリリス」「天空の愛とは知らず七竈」の両句は切ない(愚生は英語は不知)。
以下は新・久保純夫が選ぶ久保るみ子100句「補遺」。

     天空の声やわらかくななかまど          るみ子
     凌霄花微熱を先に絡ませて
     太陽を青きといいて鳥帰る
     天の川舟の心地は質されず
     絶巓を迷っておりぬ時計草
     別の手に乳房を預け紅芙蓉
     無月かな鍵穴にさす別の鍵
     残りしは祷ることから龍の玉





                ヒルガオ↑

2015年8月5日水曜日

岡崎万寿『転換の時代の俳句力ー金子兜太の存在』・・・



岡崎万寿『転換の時代の俳句力ー金子兜太の存在』(文學の森)の評論文の掲載順は、ほぼ逆編年順である。
従って、「第Ⅰ部 三・一一と俳句、その新展開(定点分析)」が、もっとも現在的で、かつ当面の変化著しいであろう俳句状況を描き出している。そこでは、戦後俳句の評価をめぐる川名大、赤城さかえと著者の評価の差異についても丁寧に記されている。当然とはいえ、岡崎万寿自身が作品評価に向かう際の姿勢が誠実に明らかに示されている。例えば、赤城さかえのリアリズム論については以下のように記している。

  時代的制約もあろうが、ここでは発想自体、旧ソ連の社会主義リアリズムの問題を、まだまだ引きずっている。俳句の方法はいかなる時でも、政治と歩調を合わせるものであってはならない。それでは国民文芸としての俳句のリアリズムは発展しない。

とりわけ、3・11以後現在までの俳句作品の評価について、新聞投稿欄の句をデータとして処理しながら、「俳句の力」として、いわゆる俳句愛好者、投稿者の作品も選び出し、朝日俳壇における金子兜太の選者としての存在の大きさにも言及している。もちろん、多くの震災詠を生み出している高野ムツオ、照井翠などにも触れている。しかも、年月という時間で洗われていきながら俳句がいかに変容していくのか、ということにも・・・。これらの批評の多くは岡崎万寿の所属する「海程多摩」で発表している、ということも愚生は初めて知った。

そのほか、付論とされた「時代を拓いたプロレタリア俳句の先達 横山林二ーその生涯と俳句・俳論」も貴重なものだった。また、「第二部 戦争と向き合った俳人たちー戦争と人間と俳句の視点」、「第三部 十五年戦争をめぐる俳句のリアリズム小史」など、時代と俳句を読み解いて示唆に富んでいる。
末筆になったが、岡崎万寿のエッセイ「無言館の『無言』」の句を挙げて筆を置こう。

      自画像は青き唇(くち)まげ無言館     万寿

岡崎万寿(おかざき・まんじゅ)、1930年佐賀県唐津市生まれ。



                 キョウチクトウ↑

2015年8月4日火曜日

池田澄子「草濡れたり抜かれたりして八月来」(「現代俳句」8月号)・・・



「現代俳句」8月号は、〈金子兜太の「戦争と俳句」を読む〉と「八月を詠む」の特別作品特集だ。
巻頭言の「直線曲線」は和田照海が「八月に想う」と題して今年第24回を迎える「ヒロシマ平和祈念俳句大会」について紹介している。
まず、金子兜太の「戦争と俳句」自選10句を読み解いてみせたのは安西篤。他の一句鑑賞は宇多喜代子、大牧広、高野ムツオ、石寒太、鳴戸奈菜、宮崎斗士、寺井谷子の各氏。
特別作品から一句づつと金子兜太自選句から以下に挙げておこう。

   わが晩年などと気取りてあぁ暑し             池田澄子
   八月や死者も生者も水を欲る               石倉夏生
   なきすめる銀河の果てに祈りましょう           大井恒行
   直瀑よ この垂直の昏倒よ                 高岡 修
   いきどほることもかなしくカンナ燃ゆ            豊田都峰
   八月の水を無傷にしておけり                松井国央
   蟻の列自衛といえばどこまでも               松田ひろむ
   おおかたは泥濘のいろ八月忌               山崎 聰
   今も余震の原曝の国夏がらす               金子兜太 



2015年8月3日月曜日

小原啄葉「初夢や自決の弾のひとつづつ」(「小熊座」8月号)・・・



「小熊座」8月号に栗林浩が聞き手となって小原啄葉の記事が掲載されている。「平成・昭和を詠む(1)」だから、連載されるのだろう。タイトルは「今、書かねばならないことー小原啄葉(前編)とあるから、次号掲載も楽しみにしたい。
なかでも、啄葉の近年の句業を思うと、震災詠もさることながら、米寿を過ぎたあたりから「戦争での経験を書き遺しておかねばと考えました」という啄葉の意志は貴重である。栗林浩がどこまで聞いているのか、戦時のことは、今でも活字にするには、はばかられることもあったに違いないが、
以下に、その一部を引用しておきたい。せめて八月という月は、そういうことを心に僅かでも留めておくべき月なのだ。

 (前略)・・二個小隊が遂に六人なり、捕虜になるなと言われ、軍旗も焼き、自決のために手榴弾を一つづつ持たされました。幸運にも救助の友軍に助け出されました。こんなお話しは、今までしませんでしたが、戦争がいかに酷くて愚かな行為だったかを、今話しておかねばなりません。ある期間青森の部隊にいましたが、化学兵器にも係りました。使ってはいけないという国際協定があったんですが、研究していたんですよ。イペリットという糜爛性の毒ガスです。実戦には使えませんでした。戦争となると正常な判断が狂うんです。おまけに大本営は大勝利大勝利でしょう。帰還してから、嘘だったと知り、精神的に大打撃でした。

(中略)・・兄は甲種合格で入隊し、陸軍中野学校の銀時計組でしたが、中国へ行かされました。憲兵だったので戦犯容疑で北京に留め置かれましたが、裁判は遅々として進まず、獄の中で結核に罹り亡くなりました。戦死公報が届き、遺骨を受け取りに上野へ行きました。兄嫁の結婚生活はたった一年ほどだったでしょう。兄嫁は泣くのを見せないんです。でも、よく藁塚の陰で屈んで泣いていました。北京で分骨埋葬されたと聞いていた墓地と思われる場所を訪ねましたが、マンションになっていて、分かりませんでした。戦争は兵隊だけなく、家族をも巻き込む愚かな行為です。

    つらなれる目刺も同じ日に死せる        啄葉
    地震くればおのれをつかむ蓮根堀
    無辜の民追はれ追はれて火蛾と生く
    冷まじや壁を掴みし指紋痕



                   ツユクサ↑

2015年8月1日土曜日

「画鬼 暁斎ー幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展・・・





三菱一号館美術館で「画鬼 暁斎」展が行われている。
河鍋暁斎(かわなべ・きょうさい)は、幕末明治に画鬼と称され絶大な人気を誇ったれっきとした狩野派の絵師である。そして、明治政府にお抱え外国人建築家として来日にしたジョサイア・コンドルは近代建築の父と呼ばれ、上野博物館、鹿鳴館の設計、加えて、現在、再建された三菱一号館を設計をしている。
そのジョサイア・コンドルは暁斎51歳のときに、懇願して弟子入りして(コンドル29歳)、本格的に日本画を学ぶのである。
今回の展示にはコンドルの描いた日本画が展示されている。狩野派の絵師として褒賞を与えられたコンドルは暁斎から「暁」ををとって「暁英」という雅号も与えられいる。
いわば、師弟の絵が、弟子の設計した三菱一号館美術館に同時に展示されるというのも見どころのひとつである。
また、英国コスモポリタン美術館所蔵の暁斎の絵《動物画帖》も里帰り展示されている。
暁斎は、明治3年、書画会で描いた風刺画で筆禍事件を起こし投獄されたころから、一層「狂戯の絵師」の画名が世間にとどろいたらしい。その暁斎は、明治14年、第二回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」で最高賞であった妙技二等賞牌を受賞し、それまでの作風への評価を覆して、絵師としての正当なる評価をうけることになった。
暁斎が胃癌でなくなったのは明治22年、享年59。臨終に立ち会ったコンドルは37歳だった。翌年コンドルは三菱社の顧問となった。
ともあれ、暁斎のとどまるところをしらない、描きつくされる山水画、美人画、人物画、動物画、戯画、春画、風俗画など、それらの比類ない多才なさまを画鬼と呼んだのだろう。



                    バショウ↑