2015年8月3日月曜日

小原啄葉「初夢や自決の弾のひとつづつ」(「小熊座」8月号)・・・



「小熊座」8月号に栗林浩が聞き手となって小原啄葉の記事が掲載されている。「平成・昭和を詠む(1)」だから、連載されるのだろう。タイトルは「今、書かねばならないことー小原啄葉(前編)とあるから、次号掲載も楽しみにしたい。
なかでも、啄葉の近年の句業を思うと、震災詠もさることながら、米寿を過ぎたあたりから「戦争での経験を書き遺しておかねばと考えました」という啄葉の意志は貴重である。栗林浩がどこまで聞いているのか、戦時のことは、今でも活字にするには、はばかられることもあったに違いないが、
以下に、その一部を引用しておきたい。せめて八月という月は、そういうことを心に僅かでも留めておくべき月なのだ。

 (前略)・・二個小隊が遂に六人なり、捕虜になるなと言われ、軍旗も焼き、自決のために手榴弾を一つづつ持たされました。幸運にも救助の友軍に助け出されました。こんなお話しは、今までしませんでしたが、戦争がいかに酷くて愚かな行為だったかを、今話しておかねばなりません。ある期間青森の部隊にいましたが、化学兵器にも係りました。使ってはいけないという国際協定があったんですが、研究していたんですよ。イペリットという糜爛性の毒ガスです。実戦には使えませんでした。戦争となると正常な判断が狂うんです。おまけに大本営は大勝利大勝利でしょう。帰還してから、嘘だったと知り、精神的に大打撃でした。

(中略)・・兄は甲種合格で入隊し、陸軍中野学校の銀時計組でしたが、中国へ行かされました。憲兵だったので戦犯容疑で北京に留め置かれましたが、裁判は遅々として進まず、獄の中で結核に罹り亡くなりました。戦死公報が届き、遺骨を受け取りに上野へ行きました。兄嫁の結婚生活はたった一年ほどだったでしょう。兄嫁は泣くのを見せないんです。でも、よく藁塚の陰で屈んで泣いていました。北京で分骨埋葬されたと聞いていた墓地と思われる場所を訪ねましたが、マンションになっていて、分かりませんでした。戦争は兵隊だけなく、家族をも巻き込む愚かな行為です。

    つらなれる目刺も同じ日に死せる        啄葉
    地震くればおのれをつかむ蓮根堀
    無辜の民追はれ追はれて火蛾と生く
    冷まじや壁を掴みし指紋痕



                   ツユクサ↑

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