2015年9月17日木曜日

伊丹三樹彦「詩を書いて一生(ひとよ)の綿々 蝸牛」(『写俳亭俳話八十年』)・・・



伊丹三樹彦、1920年、兵庫県生まれ、95歳、現代俳句協会では金子兜太と並んですこぶる元気だ(病を克服して・・・)。『不亡一枚連結便③写俳亭俳話八十年』(青群俳句会)。

育った家は金物屋。養父母が読んでいたのは「キング」や「主婦の友」。文芸書などは見付からなかった。なのに、小学生の頃から詩歌集を好んだ。十代二十代では、「旗艦」や「新映画」への投稿に励んだ。徴用令での軍属時代は戦車隊の建設現場に出張し、大工や土方の監督をした。だが、合掌屋根の鋲打検査にはビビッて、見上げてばかりいた。

また、「京都での学生俳句デモ」の項には、「京都駅前での現代俳句派のデモを敢行した話」。

 高揚した輪に、伊丹公子まで飛び入りしたこと。そのリーダーは坪内稔典だった。彼の大学時代だから四十年ほど前になるか。俳句デモなんて、俳句史にもなかったこと。当時は学生だった伊丹啓子も呼掛人になって東西に学生俳句連盟が出来た。澤好摩、穂積隆文らは青玄のスターで新人クラブを代表した。俳都松山でも集会をしている。私はデモ連中に担がれボス扱いを受けた。古都の京の人々は眼を丸くしていた。


のエッセイの後半に青玄の中川浩文と出てくるのが、愚生が京都時代、関西学生俳句連盟の句会で、7~80人はいただろうか、その選者として来ていた中川浩文が、誰一人取ってくれなかった愚生の句を唯一特選に選んでもらった記憶だけはあって、後日、調べたら「立命俳句」7号の「地底すむ流浪の目玉蟹歩む」だった。

そして、その坪内稔典から「三樹彦百句他解を出したいですねと嬉しい便りが来た。彼は私の処女句集『仏恋』の編集者であり、アイデアマンである」ともあった。

  誰かわざや天衣あかるむ花菜など         三樹彦
  杭打って一存在の谺呼ぶ
  長き夜の楽器かたまり居て鳴らず
  いま死なば すべてが反古の冬ごもり




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