2015年10月31日土曜日

蒼馬「気象台まで登り来る冬薔薇」(卯波句会俳句展)・・・


卯波の模型↑



愚生は、持病の漢方煎じ薬をもらいにハロウインの街、渋谷に出た。いつも一時間ほどは待たされるので、ついでと言っては恐縮だが、その時間を利用して、卯波句会俳句展(10月31日~11月1日)、於・ギャラリー楽水を見るために神楽坂まで行った。場所は新潮社のちょうど裏、もちろんギャラリー楽水からすれば、新潮社の方が裏というわけであるが・・。
若い人が多いらしく、俳句を見せるというよりも、楽しみ方をいろいろ見せているという展示である。
例えば、QRコードで読み取ると一句が記されてあったり(愚生は、教えてもらいながら、初めて自らのらくらくホンで実験)、ブラックライトで短冊の文字が浮き上がってきたり、ジオラマの中の句碑は拡大鏡でなければ見られなかったり、様々な楽しむための工夫が施されれいた。
蒼馬こと堺谷真人に卯波句会事務局の俳号・詩門(小山田幸雄)を紹介された。卯波の店の模型や貝合わせ、などはその御仁の製作だった。
夕刻には五島高資が来訪する予定になっているとか・・・。
残す一日の明日、興味のある方は是非、出かけて見られたい。
出展句数は総数125句。

  ふつふつと乾麺を茹で薄暑かな     今田宗男(田宗)
  木枯を満載にして貨車過ぎる         五六歩
  無き乳房母にも告げず障子貼る        唯我
  夕時雨また一葉と庭をうめ            詩門
  神主の祝詞とぎれし初日の出          風波
  雪女郎ぽとりと落とす体温計           貫之
  髪固く結ふ朝の来て水仙花           櫻子
  七草を言えてしたりの四年生          よしゆき
  みつめてもだまったままのキリギリス       早桃
  卯波立つ灯台守の絶えてなほ         古蝶
  啓蟄の隙間に銅貨落としけり          蒼馬 
  首筋の痣を隠して小望月            宏子
  お旅所の暗がり覗く修司の忌          北江



                      カツラ↑

2015年10月30日金曜日

『古沢太穂全集 補遺 戦後俳句の社会史』(新俳句人連盟)・・・



大冊の『古沢太穂全集 補遺』(新俳句人連盟)である。A5判、900ページ余の厚みがある。二年前の2013年に古沢太穂生誕100年を記念して刊行された『古沢太穂全集』に収めきれなかった座談会の記録や散文を収めている。巻頭は「展望 その似て非なるもの」1949年5月「俳句人」の「あざみ」4月号の評から始まっている。当然と言えば当然なのだが、最後は古沢太穂追悼で締められている。亡くなったのは2000年3月2日、享年86。
その時はまだ健在だった(数年前より消息不明)谷山花猿は、その追悼文のなかで、古沢太穂について、

 作品には、社会的現実を批判的に詠むものが若い時には目立ったが、高齢化にともない集会やデモに出掛けられなくなると、おだやかな抒情句の比重が高まった。
 無理して虚勢を張ったような句は避けており、おのずからうまれでる詩情に任せ、「自然流」をもって俳句の心情としていた。弟子たちの上辺だけ勇ましいスローガンめく句は容赦なく切り捨てられ、批判された。粗雑な観念的な「社会批判」は許されなかったのである。(中略)
日本社会の革新を願いつつ、抒情的なリアリズム俳句を詠んだ太穂は、戦後社会性俳句の巨匠として記憶されるに違いない。

と述べている。太穂の絶句は、

    神通(じんずう)川音いつか瞼の枯れの音         太穂

この『古沢太穂全集』と『古沢太穂全集 補遺』の刊行に尽力した新俳句人連盟は来春創立70周年を迎えるという。文字通り戦後俳句の歴史の一端を担い、その評価を思えば、日本の社会を見つめ、戦い抜いてきた時間の在り様が感じられる。



2015年10月29日木曜日

銀座「春画」展(永井画廊・監修石上阿希)・・・


                     永井画廊 5F 春画展

銀座永井画廊(4・5・8F)で開催されている(~12月23日迄)銀座「春画」展の主な内容は、案内チラシを引用すると「春画を見る、艶本を読む」と葛飾北斎の作画による二人の女性の性遍歴を滑稽なほどの物語に仕立てた「『萬福和合神』の世界」である。会場は、まだ、愚生は見ていないが大混雑らしい永青文庫「春画展」とは大いに違い(たぶん、規模も違うだろうが、それにしても、ぞろぞろ大勢で春画を眺める光景を想像すると少しばかりぞっとしないでもない)、空いていてゆったり鑑賞し、タブレットを操作するとゆっくり本が読めるのである。5Fは写真撮影もOK.。
それと江戸時代を含めて、やはりというべきか権力者の側からは、常に弾圧の対象であったことも歴史的事実として紹介されている。
また、当時の性具(陰陽瑞喜・女嶋互形・小乙女針形・薬の香閨不老丸・お香など)の図なども民俗としての興味も湧こうというものである。
この春画展の主催は銀座「春画」展実行委員会、監修は石上阿希(国際日本文化センター特任教授)、企画協力に浦上蒼穹堂・立命館大学アート・リサーチセンター・立命館大学細井研究室。
また、巷では、永青文庫「春画展」に関わる週刊誌のグラビア記事の掲載などを巡って、警察から要請が来ている週刊誌も数誌あって、週刊文春の編集長の休養までが報道されている。
春画・艶本の類は江戸時代も今も表向きの社会からは排除されてきたことは事実であろう。
かつて、芸術こそ猥褻だという言があったが、それで何がいけないのだろうか。



2015年10月28日水曜日

島一木「教会といふ薄明に月を置く」(『都市群像』)・・・



島一木句集『都市群像』(まろうど社)は、扉裏に「聖ヨゼフに捧ぐ」と記されている。
そういえば、彼はクリスチャンだったと記憶がよみがえる。かつては「豈」同人であった時期もある。
が、最近は、愚生との音信が絶えていた。
大阪に住んでいた彼は、阪神淡路大震災の時は、毎日ボランティアで、くたくたにになってひたすら眠りにつくのみ、俳句なんて全くできません、という便りを寄越していた。
その後、俳句をやめたのかと思っていたけど、まだまだ健在のようだ。
第一句集『青春譜)以後の1999年から2005年にかけての7年間の作だという。散文もいくつか収められている。その中での彼の俳句観は以下のようなもの。

イメージ多面体としての俳句xは最初からそのことを前提として作られ、さらにその効果を最大限に活かすことに重点が置かれる。ミラーボールやプリズム、あるいはカッティングされたダイヤモンドがいろいろな方向へ光線を反射し屈折させるように、イメージ多面体としての俳句xはイメージを反射して屈折させる。

著者略歴も何もないので、愚生よりは十歳くらい若いのではないかと思うが、杳として不明である。その昔、彼が東京在住の時は、俳句文学館に毎日開館から閉館まで通っていたという伝説がある。
いくつか句を挙げておこう

  身に入むや人殺されぬ日のなきは      一木
  オリーブもポパイも昔ははうれん草
  虫鳴けり無言電話の向かうにも
  一日はひとつの祈り雪のあと
  ひとに会へざりき菖蒲湯につかりけり
  しやぼん玉あがれば空の映るはず 




2015年10月27日火曜日

井口時男「セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉」(『天來の獨樂』)・・・



掲出の句には以下の前書きが付されている。

 原発事故によつて放射能汚染された土地では除染のために表土を剥ぎ取る。一面の紅葉の中、削り取った汚染表土を入れた何百個もの黒い袋が至る所に野積みになつてゐる。〔福島県相馬郡飯館村〕

     セシウムをめくれば闇の逆(さか)紅葉      時男

この句の前の句は、

  「原子の火」こぼれてセイタカアワダチサウ


井口時男句集『天來の獨樂』(深夜叢書社)、句のほかに随想を収める。跋文「天來の獨樂」に寄せては吉田文憲、室井光広。これら、本書に収められた散文を読めば、井口時男のおおよそが知れる構成となっている。とりわけ、著者「随想」の「突つ立ち並ぶ葱坊主ー俳句的日常」には自句自解の要素が窺われ、井口時男の出自が了解できよう。同時収載の「光部美千代さんを悼む」にはその出会いと光部美千代の句を紹介し、著者の批評家としての眼差しと熱い心情が伝わる。
光部美千代は昨年の「鷹」50周年の「鷹の百人」にも「写実を超えて」の題で紹介されている。50歳代後半、まだ若い命を失った俳人である。その才能を惜しんでいるのだ。
ともあれ、著者の俳句観と思われる部分を以下に紹介し、いくつかの句を挙げておこう。

 こうして私は、俳句が詩を羨望することの必然性と俳句が詩になることの不可能性とを、同時に知ったのだった。「現代の」表現として、俳句は詩を志向しなければならない。しかし、俳句は詩を志向してはならない、ということだ。これが「現代の」俳句を拘束するダブルバインドなのだ、と私は思った。
                                      二〇一五年記「てんでんこ」七号

  
  わらわらと抱かれ曳かれて春の犬
  天皇(すめろぎ)老いし日や襯衣(シャツ)の襟垢染みぬ
    七月二十八日午前零時三十八分祖母死去
  短夜を腰の伸びたる仏かな
  口寄せを了へてイタコは腰を伸(の)
  刑務官ら破顔(わら)へり若き父親(ちち)なれば

井口時男(いぐち・ときお) 1953年新潟県生まれ。


                               ツワブキ↑

2015年10月25日日曜日

藤田隆雄「日の丸のその真ン中が爆心地」(第52回現代俳句全国大会賞)・・




               現代俳句協会賞受賞の渡辺誠一郎と寺井谷子氏↑

昨夜は、第52回現代俳句大会の懇親会に上野東天紅に出かけた。
大会三賞は、

  日の丸のその真ン中が爆心地    藤田隆雄(大会賞)
  朝顔やみんな大人になつた家    永野照子(大会賞)
  道おしへその先戦場かも知れず   柏原才子(毎日新聞社賞)

同時に、第70回現代俳句協会賞・渡辺誠一郎、第35回現代俳句評論賞・高野公一、第33回現代俳句新人賞・瀬戸優理子・山岸由佳、第16回現代俳句協会年度作品賞・前田典子などの表彰が行われた。

懇親会は意外と早い中締めとなり、ふらんす堂の山岡女史と久しぶりにお茶を飲んでよもやま話をした。



                    岸本悟明氏↑

閑話休題・・

35年ぶりなるだろうか、愚生は本屋に勤めていた関係で、かつて吉祥寺駅前にあったベル・エポックというシャンソニエに定期的に週刊誌などを届けていた。そこで幾人かのシャンソン歌手と知り合った。急な誘いであったが、俳句大会懇親会の前に、あまりの懐かしさに顔を出すことにした。
場所は、東中野の喫茶店を会場にして「カフェドリヨンコンサート」と名付けられ、シャンソン教室の方々も出演されていた。その店のオーナーが歌手・浦ひろみ。愚生の旧知だったのは岸本悟明・石橋美和。来る11月28日(土)には下田ビューホテルで石橋美和・岸本悟明ジョイントコンサート、また岸本悟明は、11月6日(金)にシャンソンフェステバルイン小金井を小金井宮地楽器ホールで、また、12月19日(土)には第16回目となるデイナーショーを椿山荘でやるという。久しぶりに二人の歌を堪能した。


                                       カラスウリの実↑

2015年10月23日金曜日

田宮尚樹「遅き日の山羊皮綴ぢの小句集」(『龍の玉』)・・



田宮尚樹句集『龍の玉』(ふらんす堂)。
句集名は「一昨日も昨日も月夜龍の玉」から・・。著者第二句集。
作者は昭和19年、愛媛県生まれ。坪内稔典と同じである。
略歴に昭和42年に「天狼」入会、その後昭和46年に「草苑」、さらに「雲母」入会とあるが、「雲母」「草苑」も終刊している。現在、「もちの木」俳句会主宰。
帯文に「私が俳句を作るのはものを見て作らずには居られない衝動にかられるときである」とあるから、
なかなか感動できない愚生などには、羨ましいというべきだろう。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

   糸桜日月空に入れ代はる        尚樹
   木のこころ溢れてしだれかな
   酩妙淼々と南溟ありぬ敗戦日
   滝枯れて滝の高さの残りけり
   柘榴裂けて天地離れてゆくばかり
   遅き日の山羊皮綴じの小句集

それにしても、近年の新刊では、山羊皮綴じなどはもちろん、とにかく背皮装の句集や本はとんと見かけなくなった。愚生の若いころは、必ずごく少部数の特装本が作られたものだが・・・



                     サボテンの花↑

2015年10月22日木曜日

上森敦代「村ごとに違う神在り秋祭」(『はじまり』)・・・



上森敦代(うわもり・あつよ)、昭和33年、京都市生まれ。
句集『はじまり』(飯塚書店)の「あとがき」に、言う。

 「はじまり」は一九九八年に四人ではじめた「quatre」という俳誌の創刊号のテーマでした。当時の無鉄砲な日々と、ときめきは、かけがえのないものです。その時遠くまで行けそうな気持を、大切にしたいと思っています。そして、この句集がまだ見ぬ私に出会うための起点になると信じ『はじまり』と名付けました。

こうして、また永遠の旅に赴く日日が始まっているのだろう。
ともあれ、帯の著者の自選句を除いて、愚生が印象にとどめたいくつかの句を以下に紹介しておこう。

  だまし船ほどいて眠る朧月          敦代
  仏間まで風吹き渡る稲の花
  真夜中の訃報 あとから あとから雪
  海蛇で過ごす生涯春の暮
  村ごとに違う神在り秋祭
  祭からはなれて祭見ておりぬ
  戒名の母と椿を眺めたり
  しばらくは水に従う落椿
  相槌をときどき忘れ冷奴
  冬の月五臓のひとつ欠けており




2015年10月20日火曜日

多賀芳子「霜柱素足に踏みて逝かむかな」(『芳子俳句おぼえ書』)・・・



今日は、多賀芳子忌である。平成10年10月20日に亡くなった。
大正5年東京芝生まれだから、存命ならば99歳。享年は82だった。
手元にある『芳子俳句おぼえ書』は手書きの句集である。美しい文字でつづられたおよそ150句、

俳句という化物にとりつかれ
ウロウロ幾十年かすぎました
毛筆などもつ柄ではないのに下手
な字をならべご容赦を
ご笑納下さば幸甚です
       平成元年六月
大井恒行様          芳子

と扉前に記されている。
多賀芳子は、和綴じの芳名帳を自筆の句集として、それまでも幾人かの俳人に渡していた。
久しぶりに取り出してみたら、すっかり忘れていた便りも挿み込まれていた。なかに「本人の知らぬ間に『ゴリラ』のおっかさんにされ、めんくらったり、よろこんだりです」とあった。
毎月行われていた芳子宅・碧の会の句会で「ゴリラ」の原万三寿、谷佳紀、早瀬恵子などに会い、また唯一の弟子の川名つぎおや、小泉飛鳥雄、田村みどり、渋川京子、そして、妹尾健太郎、中西ひろみ、杉田桂、吉浜青湖、谷山花猿などとも面談の機会を得た。
最初に多賀芳子に会ったのは、確か現代俳句協会の月例句会で、多賀芳子の席の横だけが空いていて、手招きをされ横に座らされた。愚生の選句には「馬鹿だね~!この子は、こんな句を選んで・・」とか言われ、その後、「馬鹿のオオイ君」と言われがらも、句会にはよく誘っていただいた。
席の空いていたのはたぶん、その毒舌が敬遠されていたのかも知れない。それでも、渋谷の鬼婆と言われながら、自らもまんざらでもない様子が窺えた。
便りには、自らの来歴も記されていた。
 
 戦前「睦月」という温室で蝶よ花よと甘やかされ、敗戦で、お嬢ちゃまが突然、大地を這う大蛇に成り上がり、旧知の高柳にさそわれ、「薔薇」「俳句評論」といじめられてきました。どう考えても「海程」に入ったのが、私の失敗。やがて此処を出、「頂点」に腰をおちつけましたが、鈴木六林男に去られてから、この小誌もカビが生え出しています。(以下略・六月二十三日の日付がある)

時は流れて、今はその「頂点」の代表を唯一の弟子・川名つぎおが務めている。                                        
女性にはめずらしく、歯に衣着せない句評をしていた。その愛すべき鬼婆の手書きの句集から、以下にいくつか挙げておこう。

   裸木にガラスの馬の犇く夜      『赤い菊』(昭和41年)抄
   橋から橋へ駈けて乳房をかなします
   ゴリラほどしずかに紅葉の山下る   『餐』(昭和50年)抄
   霊柩車茶碗けちらしけちらし来    『双日抄』(昭和51~平成元年)未刊
   霜柱素足にふみて逝かむかな
   からいからいと白夜の椅子が流れくる
   
因みに、金子兜太の『今日の俳句』(光文社・昭和40年)には、名が平仮名の「多賀よし子」で「橋から橋へ駈けて乳房をかなします」の句が載っている。


                                     ピラカンサス↑

2015年10月19日月曜日

田中房枝「真夜中の間違い電話に飛び起きたりわれら姉妹『往生適齢期』なれば(「合歓」70号)・・・



「合歓」(平成4年創刊、代表・久々湊盈子)第70号は創刊23年の記念号である。各同人の写真・略歴・短歌10首が各ページに掲載されている。
掲出の歌は、ページをめくっているときに、ふと、眼に飛び込んできた歌だ。
作者佐藤房枝は、千葉県にお住まい、大正12年生まれ、長崎県生まれ、である。
「合歓」には、毎号楽しみにしているインタビュー記事が載る。今号は伊藤一彦、愚生が若いころ、ひそかに「月光の伊藤一彦」と思っていた歌人で、若山牧水の顕彰にもつとめている。久々湊盈子が宮崎県まで訪ねての「伊藤一彦さんに聞く」インタビューだった。伊藤一彦がさまざまな活動をしていることも知ることができた。今年の「短歌」4月号に掲載された歌についても語られている。

  うらうらに春日照らむや三十年後の戦後百年に雲雀のあがり    一彦
  石勘當いくつも立てり戦時中に沖縄ゆ移り住みし人多く
  六十年見捨てられゐつ「福竜丸」以外の被曝者一万人は 

門外漢の愚生には、加藤英彦(同人誌Es)「仙人掌の花はひらいたかー久々湊盈子作品ノート」の論考も久々湊盈子の相貌を窺うにはありがたかった。

  いずくにかまだわれを待つ人ありとたわけた夢が女にはある  盈子『あらばしり』
  おまえを生んだ四月の朝の晴朗を忘れずにおくこの母だけは
  音たてて国が変わるということのまさかに大き仙人掌の花    『風羅集』 

招待作品は米川千嘉子(かりん)「炎天」。

  炎天はもつともふかく悼むひと八月六日無人の街に       千嘉子




  

  

2015年10月16日金曜日

三橋敏雄「わが家になし絶滅の日本狼図」(「断崖」昭和35年4月号)・・・



掲出の句は、三橋敏雄「〈絶滅のかの狼を連れ歩く〉の原型と思えるが、初出から『眞神』収録まで十年以上の熟考の形跡が窺え、初出の時点でも無季にこだわっている様子が窺える」(『眞神』を読むためのプロローグ」WEP俳句通信88号)という北川美美の新連載「三橋敏雄『眞神』考①」からのものだ。
また、別の項において、以下のように述べている。

 敏雄自身も作家としての手応えを得た作品が『眞神』だろう。平成元年『疊の上』に於いて蛇笏賞を受賞するが、作品の独自性は『眞神』に顕著に現れ、四季を超越した無季秀句が、そして敏雄が目指す大人が読むに耐える俳句作品が配置されている。読者を立ち止まらせ、読者をも試される俳句に出会う。(中略)
そこには言葉から発せられた映像と音が読者の脳裏に「空」の世界を創っていくのである。

まだ、第一回だから、どのように進展するか不明だが、今後の展開に、さらに期待がふくらむ。楽しみである。
先に遠山陽子による三橋敏雄評伝があるが、それとは、少し趣を異にして北川美美は、三橋敏雄の句の読みを通して三橋敏雄像を結ぼうとしているのであろう。
「WEP俳句通信」の同号には、「豈」同人からはもう一人、筑紫磐井の連載「戦後俳句の戦略⑤」による論考「秋桜子・波郷・登四郎・湘子ー秋桜子・波郷の発奮」も掲載されている。かつて高柳重信編集の「俳句研究」が「戦後俳句は不毛か」「戦後の処女句集」「戦後○○年の俳壇」「戦後派の功罪」など、戦後俳句の総括を特集として連続して企画していたが、その後、およそ30年経過してもなお、そうした企画は殆どなく、戦後70年の今日、筑紫磐井は、独自の眼差しをもってそれが、俳句にとってどのようなものであったか、を総括しようとしているのかも知れない。スリリングで面白い。これも期待大である。



                 アゼリア↑

2015年10月15日木曜日

中嶋いづる「鍵開けてあの世へ続く良夜かな」(「塵風」6号より)・・・



「塵風」(JIMPU・西田書店)NO.6の特集は「駅」。
「つげ忠男京成立石を語る」のインタビュアーは長谷川裕と三宅政吉。そのほか、佐山哲郎、久保隆、仁平勝、東人などが健筆をふるっている。
色々記事があるなか、愚生がもっとも眼が引かれたのは「追悼 中嶋いづる」である。
あの中嶋いづるか?でも、なあ・・そういえば、もう20年以上会っていない、な・・・。
でも、そうっだった。愚生と同じ生まれ年だ。1948年11月。青森県八戸市生まれ。2013年2月没、享年64とあった。知らなかった。
まだまだ逝くには早すぎる年齢だ。
愚生が会ったころ、つまり、現代俳句協会青年部が創設されて間もないころ(ほぼ四半世紀前)、彼は忙しい仕事の合間を縫って青年部の会合によく出席していた。部長は顧問格だったが、阿部完市。実行部隊は、その後にアベカン氏のあとを継いだ青年部長・夏石番矢と愚生らであった。
当時、青年部は論作集として『現代俳句と読み』(現代俳句の展開43・現代俳句協)を刊行し、そこに中嶋いづるも参加している(一昨日、訃報を聞いた山口剛も入集している)。
以下にその折の句を挙げる。

     春隣隙間だらけの人に会う       いづる
     花びらの長距離列車動き出す
     亀鳴くや船のなかから郵便車
     仰向けに蟬の死いつも無信心

その中嶋いづるは、今号「塵風」追悼の略歴によると、愚生の知らない面がずいぶんとあることに驚いた。

 85年、「麦」同人となり、「麦」新人賞を受賞。このころ斉田仁の指導のもと下村まさる、村上博、大畑等、長谷川裕らと百句会を立ち上げる。
廣済堂を退社後の89年個人業としてフォトエッチング加工の営業開始。91年有限会社メルテックを創立。以後十年で同社を株式化し、従業員百人以上の中堅企業に育て上げる。 
 09年、「塵風」の創立に参加。12年、中央競馬の五連勝単式馬券を的中させ、配当金2000万円を獲得。翌2月、死去。享年64。


    幽谷にまだ目の澄みし干した魚    いづる



                 
                 ハツユキソウ↑


     

2015年10月13日火曜日

大井恒行「大兄の鳴りたる骨よ秋の風」(′96年攝津幸彦追悼句)・・・



今日は、攝津幸彦の祥月命日である。1996年10月13日、享年49。
あの日から、19年が経つのだ(存命ならば68歳)。
まだ夭逝の名を冠にして攝津幸彦は逝ったが、愚生らは高齢者の仲間入りとなったものも多い。
あるいは、高齢になられたために、施設に入られたり、攝津幸彦亡き後に亡くなられた方もそれなりの数になってしまった。
「豈」を退会をされる理由に、俳句が書けなくなりました、もう若い方々の邪魔にならないように退会いたします、などという便りをいただくと、実にさびしくなるのである。
作品掲載はなくとも、ここまで「豈」を支えてこられたのだから、せめて名誉・永久会員の名を残したままでも・・と、思ったりもするのである。
数えてみると、「豈」35周年の今年は、攝津幸彦を失ってからの歳月の方がすでに長くなってしまっているのであった。
攝津幸彦の告別式の日の、街路樹のハナミズキの赤い実が濡れるように赤く輝いていた記憶だけはいまも鮮明である。以後、あのように陽に赤く輝いて見えたハナミズキの実を目することはない。




閑話休題・・・

山﨑十生より、山口剛の訃報が届いた(享年66)。合掌。

      正統はつねに少数みゆきばれ     剛




                イイギリ↑


2015年10月12日月曜日

伊丹三樹彦「落芙蓉すうっと終章急がねば」(『写俳亭の書写句文集《蓮》』)・・・



『写俳亭の書写句文集《蓮》』(青群俳句会)の「安正 藏 正子に俳恩ありて椅子」の句が記されたページには、「伊丹三樹彦句集『知見』出版記念会の様子が書かれているのだが、その最後の二行は以下のようにある。

 私はこのあと、続・続続の『知見』三部作、全句集の続編と出している。〈落芙蓉すうっと終章急がねば〉の実践中である。

句中の安正は、宗田安正、藏は越村藏、正子は平松正子である。
書も我流と言っているが、なかなかいいと思う。本著には、記念の写真とともに、短冊・色紙の書も多く掲載されているのだ。

   天界に待つ人増えて 沙羅の花       三樹彦
   草加江 登仙 草城門下で 句碑発起
   
日野草城の句碑を豊中市の服部公園に建てた。
旧門下の「旗艦」同人だった井上草加江と私は並んでいる。
背後は三木登仙。草城が勤めた大阪海上火災保険の元同僚であった。

とある。句碑には、句のほかに「俳句は東洋の真珠である 草城」と刻まれている。
また、夫人だった伊丹公子への思いのあふれるエッセイは、いたるところに「公子の笑顔」として登場する。


伊丹三樹彦1920年伊丹市生まれ。95歳。本名 岩田秀雄、 別号 写俳亭。


               マンサク↑

2015年10月10日土曜日

矢上新八「東京のもみない饂飩すすり食う」(『浪華』)・・・



矢上新八句集『浪華』(書肆麒麟)は全句大阪弁で書かれた句集だ。巻末に「方言の索引」が付いている。掲句でいえば、「もみない」が大阪ことばというわけである。それによると「もみない」は「まずい・美味くない」とある。
そりゃーそうだろうと思う。愚生だって、故郷山口から京都、21歳の時には、さらに東京に流れ着いたときは、まず饂飩を食べた。その時に、ワッ、醤油のなかに饂飩が浮いている、と思った衝撃はいまだに忘れがたい。関西は、やはり饂飩で、まずいと思われる饂飩でも何とか食べられるくらいには美味いのだ。最近では東京でも関西風の饂飩が食べられるので少しはましになっている。東京は蕎麦の方がはるかに美味い。
大阪弁で俳句を書くようになったことについて、著者は、

たまたま点けたカーラジオが鹿児島の「さつま狂句」の句会を中継していて、言葉は甚だ難しかったが、聞いていると薩摩弁で詠む川柳のような狂句が方言によって一句に意外な滑稽味や説得力を加えているのを感じ、これを使えば面白いのではないかと考えたのが始まりである。

という。そして、「大阪弁を使う俳句は、途中に十数年間の俳句を離れた期間があるにしても都合三十年余りになる」(あとがき)とも記している。

矢上新八(やかみ・しんぱち)は1944年大阪生まれ。桂信子「草苑」創刊同人。「日時計」「天敵」「未定」「円錐」と澤好摩、横山康夫などと行を共にしてきている。「日時計」時代は攝津幸彦とも一緒だった。で、「衣の中はどのみち裸蜆汁」新八の句に、「どのみち」つながりで攝津幸彦の「花うつぎどのみち曇る父の道」を思い出したりした。

いくつかの感銘句を挙げておきたい。大阪弁の方は索引を引用しないので、読者諸兄姉の読みにお任せしたい。

    石の上の生餌がいのく晩夏かな        新八
    乾杯やおもろない夜は酔潰れ
    虫集く嗚咽の虫もおるやろに
    寒い夜に代りばんこの番がくる
    手に触れた得物をなおす牡丹雪
    命いっこ置くとこもない秋の暮
    たいがいは何ほどもない冬景色


              
                 エンゼルトランペット↑

2015年10月9日金曜日

和田悟朗「水中に水見えており水見えず」(『自句自解 ベスト100 和田悟朗』)・・・



和田悟朗、今年の2月23日に肺気腫のために亡くなった。享年92。それにしても、病床にあって『和田悟朗全句集』(飯塚書店)、そしてこの度の『自句自解 ベスト100 和田悟朗』(ふらんす堂)といい、両著とも自らの手で、その稿の全容を見届け(完成した本は手にすることはできなかったが・・)、逝くなどという覚悟の上の始末はなかなかできるものではなかろう。運?の強さも手伝ってあるようにさえ思える。全句集は、久保純夫・藤川游子の尽力があり、この度の経緯は、和田悟朗自身の付記によると、

 ここに選びだした百句は、第九句集『人間律』(ふらんす堂、二〇〇五年)と、第十句集『風車』(角川書店、二〇一二年』からの七十三句と、全句集(未刊)に収録予定の第十一句集『疾走』からの二十七句である。
 また、「私の作句法」については、体調がすぐれず、口述筆記に依るもので、筆記には、「風来」編集の方々(小野田魁、森澤程、玉記久美子、石井冴)が当たって下さった。四人の方々には深く感謝申し上げる。
           二〇一五年二月十九日
                               和田悟朗

とある。日付は、亡くなる四日前だ。さらに両著にあっては、もちろん、婦人・和田アイ子の支えもある。その和田アイ子は、「口述筆記による文書の完成をまたずに和田悟朗は逝去。成文に当っては花谷清氏(「藍」主宰)から貴重な助言をいただいた。深く感謝申し上げます」と記している。
掲出した「水中に水見えており水見えず」の自解は以下、

水は、水素と酸素の化合物で、宇宙に物質が出来始めたとき、水素やヘリウムについで出来た三番目に簡単な分子である。たまたまわが地球にも大量に存在する。地球の水は、大部分が海の水であるが、目の前のコップ一杯の水は、極めて少量ではあるが貴重である。純粋の水は、可視光線を吸収も反射もしないから、そのままでは見えず、その容器だけしか見えない。きれいな水を見るということは何も見えないということだ。                 (句集『疾走』)

なるほど、科学者の眼差し、認識に違いない。やはり、その道の達人には、愚生の見えないものがみえているのだ。



サザンカ↑



2015年10月6日火曜日

染谷佳之子「流星や海底に船今もあり」(「麟」54号)・・・



「麟」(麟俳句会)の表2には、毎号「文学としての俳句」というマニフェストが掲げられている。それが、この同人誌の志なのである。
柱は、「女性俳句研究」の連載である。現在、考察されているのは橋本多佳子。飯野きよ子と駒木根淳子でおのおの第7回目の多佳子研究となる。着実な営為だ。
ブログタイトルに掲げた句は「染谷佳之子の詠む戦争ー火蛾」28句からの作品である。
昭和3年生まれ、とあるから、

   自分史のはじめ三月十日の炎     佳之子

の句は、事実、彼女の生の在りようなのであろう。魅かれる句は多い。

  若かりし叔父叔母三月十日の忌
  反戦集会緑陰に乳母車置き
  花火船戦火で逃げし橋くぐる
  原爆忌句帳は白きまま昏るる
  ヒロシマ・ナガサキ以後を迂闊に踊りゐし
  流星や海底に船今もあり

各同人にも社会詠の句が、それぞれにある。
以下に挙げておこう。

  蝉時雨シュプレヒコール蝉時雨     山下知津子
  憲法九条炎帝は守り通す        飯野きよ子
  箱庭になしミサイルも原子炉も     駒木根淳子
  強行採決蝉時雨極まれり        野口明子




                アカノママ↑
  
  

2015年10月5日月曜日

妹尾健「風間直得(かざまなおえ)のこと」(「逸」第36号)・・・



「逸」第36号に、妹尾健は地味ながら貴重な資料を掘り起こし、論評している。ルビ付き俳句の実践についての歴史的な経緯についての言及である。
ルビ付き俳句の提唱は、歴史的には昭和初年にさかのぼる。それは河東碧梧桐の新傾向俳句以後のことになるが、碧梧桐は、関東大震災直後に「三昧」を発足させ、自作を短詩と称して、俳句の新天地を開拓しようとする。「三昧」の編集者であった風間直得のルビ付き俳句の提唱に乗って、実践をもしたのである。
当時、ルビ付き俳句の典型と言われたらしい作は(村山故郷『昭和俳壇史』によると)、カッコ内( )がルビ、

    簗落(オチ)の奥降らバ鮎(コ)はこの尾鰭(オゴ)る     河東碧梧桐
    (クユラス)マダム頬色(ツヤ)ない壁に雨とし今夜    阿部木実男
    低く家(ヤ)灯ぐらィ、いそ夜業(イソシ)めれ、二十娘(ハタチゴ)が髪(タリ)  原鈴華
    西風(ハヤテ)凪ゲ夕(ユ)シ浴後(ヨゴ)の麦笛(フエ)をの、吹き捨(ツク)たる 風間直得

新興俳句が勃興する前のことである。その発案推進派の中心にいて、現在は,風間直得の名は忘れ去られている。その直徳の来歴と『風間直得六百句選』(昭和7年)を手に、妹尾健は掘り起こしている。そして、以下のように述べるのである。

風間直得のルビ俳句なるものは、新傾向自由律から発した定型否定論の極北をゆく理論作品であったたといえる。   

いつもながら、妹尾健の粘り強い探索に敬意を表したい。

その「逸」(発行・花森こま)であるが今号で終刊となる。ちなみに終刊号の招待作品には伊丹三樹彦、八上桐子、参加作品に野口裕、杉山あけみ、松浦敬親、小谷小百合、石原明、木戸葉三、小西瞬夏、佐藤榮市、小島ノブヨシ、武邑くしひ、山口可久実など。注目は楢崎進弘の三百句一挙掲載。また、秋川久紫の和田悟朗論。花森こまは題詠。

      悼・愛犬ハンス、十五歳五ヶ月
  踝のあたりはももいろの闇か         こま



                    チカラシバ↑
                 
     

2015年10月4日日曜日

山田航「現代短歌むしめがね」(週刊読書人)・・・



「週刊読書人」の連載で、楽しみに読む記事がある。円満字二郎の「漢字点心」に加えて、8月から始まった山田航「現代短歌むしめがね」だ。現在は「コンピュータ編」とあって、たとえば今号(3109号・10月2日)は「リクナビ」の語が入った短歌である。
愚生は、全くコンピュータの用語に疎いので、いつも感心させられている。用語そのものより、よくも短歌形式の取り入れて詠めるものだというある種の新鮮な驚きが最初に来るのである。俳句でも、こうしたことは読めるはずなのに、愚生の不明からか、とんと見かけたことがない。
今号では、「リクナビ」の短歌が以下のように鑑賞されている。

  リクナビをマンガ喫茶で見ていたらさらさらと降り出す夜の雨

           永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(2012)

リクナビといえば就職サイト。それをマンガ喫茶でみている。ついつい「就職中のネットカフェ難民」という人間像が浮かんでしまう。(中略)
「さらさらと降り出す夜の雨」は、はじめは優しいそぶりをみせながらいつかは激しく打ち付ける豪雨となることを暗示しているのだろうか。(中略)
「リクナビ」を入口に社会へと入っていこうとする。たとえ理不尽で不誠実な世界であろうと。この勇気とも悲しみともつかない不思議な感情を、青春期の終わりに経験したことのある人は少なくないのではないかと思う。

山田航(やまだ・わたる)は1983年札幌生まれ。歌人。「かばん」所属。



★閑話休題



昨日は、レベル21で行われた大高霧海主宰の「風の道」創刊30周年記念祝賀会および大高霧海句集『菜の花の沖』出版記念会に出かけた。
来賓の「無言館」の館長・窪島誠一郎の挨拶の中で、戦時中に疎開していた石巻で、震災直後に展覧会開催をした折のことを語られたことが、とりわけ心に残った。その「無言館」は上田の駅からタクシーに4人で乗れば千円程度で行かれるらしい。そこには戦没画学生たちの過酷な戦時下での、まぎれもない生が刻まれている。
大高霧海、広島出身の前回の句集が『無言館』である。



2015年10月3日土曜日

小川軽舟「過ぎゆける時間芳し草雲雀」(『掌をかざす』)・・・



小川軽舟『俳句日記2014 掌をかざす』(ふらんす堂)の今日の日付、つまり、10月3日をめくると(昨年は金曜日)、以下のように記されている。

 「年をとると月日の経つのが早い」とよく言われるが、私にはその実感がない。変化に富んだ毎日をめいっぱい忙しく過ごしていると時間はそうあっさりとは進まない。この俳句日記を続けるだけでもずいぶん時間に錘がつく。

過ぎゆける時間芳し草雲雀

それにしても、「草雲雀」という季語は紛らわしい。愚生などはてっきり、揚雲雀ならぬ草雲雀だから春ではないかと思い違うタイプである。ともあれ、鳥ではさらさらなく、コオロギの仲間で身体はさらに小さく、関西方面では「朝鈴」と呼んでいるらしい。明け方にフィリリリと細い声で鳴くので、よっぽどふさわしいようにさえ思える。別名に金雲雀もあるが、やはり、この一句、上句に対して、さすがに草雲雀がもっとも相応しい。

余談だが、本著の装丁は、どこか聖書を思わせるところがある。聖書、すなわちバイブルであるが、ものの本によると、次の日、1535年の10月4日、およそ480年前のこの日、最初の英語版聖書の印刷が出来上がった日なのだそうである。決定版の欽定聖書は、それに遅れること、1611年。そのBibleの語源はギリシャ語経由のフランス語で、英語はそれをそのまま借用したとある。ようするに「書物」ということらしい。ただ、それらの最初は小文字らしく、大文字Bで始まるBibleは「これこそが書物」という意味あいらしい。
俳句はささやかな日常を詩にすることができる文芸である」とは、俳句ではまさに聖書(Bible)の言葉に近いのかも知れない。



                キンモクセイ↑

2015年10月1日木曜日

飯田香乃「線香花火ブレスレットが光っていた」(『魚座のしっぽ』)・・・



飯田香乃句集『魚座のしっぽ』(草土社)。序文の酒井弘司によると「香乃さんが俳句をはじめたのは、幼稚園の年長さん、六歳のときでした」とあって、現在は中学2年生らしい。小学校5年生のときに「朱夏」108号(平成25年)に載った「わたしの一句」が〈あとがきにかえて〉として掲載されているが、それには「幼稚園の頃から祖父に手ほどきを受けています」とあるから、その祖父とは酒井弘司のことかしら、などと想像してみる。この句集には、香乃さんの成長ぶりがうかがえるように、幼稚園、小学生、中学生の各年ごとに句がまとめられている。手ほどきをうけたといっても、それは、あくまで香乃さんの自主性によっているだろうことが伺える。俳句を上手に作らせようなどとは考えていない。香乃さんのおもむくところにまかせている。中学生の香乃さんの句は、今後、変貌を遂げるにちがいない。それは同時に、香乃さんの大人への成長を促すような句がらになるに違いないだろう。
目を細めてみている祖父の顔があたたかくうらやましい。

    せみ鳴いてお花きれいでありました    平成19年・幼稚園、年長
    もうすぐ桜が咲くよ雨のあと
    十一月やぎ座と南の魚座のしっぽ    平成20年・小学1年
    線香花火ブレスレットが光っていた    平成21年・小学2年
    風のようにばしっと手をあげ走る夏
    ヤッホーとこだまがひびく冬の空      平成22年・小学3年 
    春風を自転車に乗せ図書館に     平成24年・小学5年
    夏休み宿題はあと三つです        平成25年・小学6年
    手袋のスヌーピーといっしょにかけだした  
    満開の桜さくさく飯田線          平成26年・中1年   



                 サルビア↑