2015年11月29日日曜日

福田葉子「十七字みな伏せ字なれ三橋忌」(第127回「豈」句会)・・・



昨日28日(土)は「豈」恒例の忘年句会、筑紫磐井、池田澄子、関西からは堀本吟など、隔月ごとの句会には出られないが、この日だけは、出席する。
最高点は、上掲の句だが、投句短冊には前書きが三橋敏雄忌とあったが、清記のときには、断って前書きを外した。
たぶん、作者は上五・中七が三橋敏雄の句「十七字みな伏せ字なれ暮の春」からの本歌取りなので、前書きを付して盗作に近いと言われないように、挨拶されたのだろう。
句会に出席されなかったが懇親会(白金高輪・インドール)には池田澄子、群馬から北川美美など、また、外部からは西村麒麟夫妻、太田うさぎ各氏に参加いただいた。
三橋忌は12月1日。以下は句会の一人一句。

    十七字みな伏せ字なれ三橋忌        福田葉子
    咳の語尾ひとそれぞれの切字かな      照井三余    
    みのむしの蓑のとりどりパレコレ      羽村美和子
    鷹となり一天の碧ほしいまゝ        堺谷真人
    三の酉写楽の顔が世にあふれ        筑紫磐井
    階段の糸抜いている閒石忌         堀本 吟
    蜉蝣と向うのボクに会いにゆく       山本敏倖
    難民はボートから見る三つ星        無時空 映
    葱の世の香味俳味や豈の会         早瀬恵子
     
    解かなくも
    来たる寒暮の
    解けずあり                 酒巻英一郎

    ひるの陽に白山茶花の女人哉        多仁 竝
    容疑を掛けられどおし狂い花        小湊こぎく
    ぼうっとしていても夜なべの母とポチ    川名つぎお
    原セツ子死ぬ俳句をかまえ鎌倉へ      岩波光大
    雪便りありて夜ながき三島忌や       大井恒行  


                                         農工大より↑

*閑話休題・・・
もう少しで第三回攝津幸彦記念賞が公表されるだろう。順調にいけば「豈」58号(本年下旬発行予定)で速報にて告知され、ブログ「俳句新空間」などでも発表される。詳細は「豈」次号59号(来夏発行予定)になるが・・・




2015年11月22日日曜日

高橋龍「かの日夏白木の箱の中は紙」(『人形舎雜纂』)・・・



高橋龍『人形舎雜纂』(高橋人形舎)は、遠山陽子個人誌「弦」にほぼ十年に渉って掲載された論文に書下ろしを加えて、まとめられた一本である。「あとがき」にその由来を記している。

 昨年の秋から読み返してきて、執筆当時には思い至らずまた資料の見落としの多々あることに気付き、それらをそれぞれの追記として書き加えることを思いたった。だがなかなかに筆がすすまず、書きはじめたのは七月半ば、それから猛暑の八月一ぱいかけてようやく完了した。その間に、「後備役」以下の三篇を書いた。すでに脳内は老化甚だしく八十六歳の衰齢であれば文の粗放乱雑はお許し願いたい。

いずれの論も高橋龍らしく詳細を極め、よく事実を調べ上げている。例えば、その「後備役」の章では、以下のように指摘している。

富澤赤黄男『天の狼』所収の戦場詠「蒼い弾痕」(六十六句)については、これまでに数々の論考があるが、その軍歴に大きな誤りがある。そのいずれもが彼の階級を工兵少尉としている(昭和十五年中尉に進級)が、その誤りは『定本・富澤赤黄男句集』および『富澤赤黄男全句集』の年譜を見落としていることから生じるのである。

として資料を駆使し精緻を極めた筆致で、その正しい軍歴を追及していくのである。また赤黄男の転戦の跡をも探っている。

本著の巻尾には「句控 擬檀林(又は戸袋文庫)と題して自らの最近の句を収めている。
その中からいくつかを以下に挙げておこう。

     赤茄子の腐れてゐたるところよりー茂吉に倣ひて
  自転車のたふれてゐたるところ百合
  桃の実を無意味の海へどんぶらこ
  秘密保護法卵食ふときマスク取る
  マラルメも定家も持参する歳暮




★閑話休題・・・
高橋龍の友人でもある阿部鬼九男を、つい先日、酒巻英一郎と救仁郷由美子、愚生で訪問した。その折、めずらしく、彼の師であった加藤かけい、また村上鬼城、そして彼自身の短冊を持って行けと言われ、一度は断ったものの、それではといただくことにした。(鬼九男さんの短冊は本日のだれも所蔵していないし・・・)。来年、桜の季節には是非とも宴をしましょう、と約して鬼九男宅をあとにした。



                火鼠を追ひ込むふきげんな日常へ  鬼九男↑
                十二夜に蟹のカノンの不肖の火事



2015年11月20日金曜日

藺草慶子「雲よりも水に茜やかいつぶり」(『櫻翳』)・・・



『櫻翳(おうえい)』(ふらんす堂)の書名「櫻翳」は、藺草慶子の母がつけたという。いい言葉だ。愚生は不明にして「櫻翳」を知らない。造語かとも思ったが、桜にまつわる言葉は無限にありそうだから、何かの謂いがあるのだろう。むしろ、なにも知らないままの「櫻翳」という言葉のありようを見つめていればそれでいいような気がする。
集中に桜模様の句も多くあったが、隠れ恋、恋隠れのような趣もないではない。
陰翳ふかいといえば、そうにちがいないが、作者はあくまで前向きである。「あとがき」には以下のようにあった。
 
 言葉はどこまで届くのだろう。私に何ができるのだろう。日々、自分の無力さを痛感するばかりだが、今という時代に生き合わせた一人として、少しでも前にすすんでいきたい。これからも、俳句によって、世界につらなっていけたらいい。

愚生の好みの句を含めていくつかあげておこう。

   一対のものみないとし冬籠
      昭和十九年六月一日、マリアナ諸島にて祖父小川衛戦没 享年三十四
   敗戦日なほ海底に艦と祖父
   向日葵や人老いてゆく家の中
   百年も一日も淡しさるすべり
   寒紅梅晩年に恋のこしおく
   香水や時計すこしづつ狂ふ
   

藺草慶子(いぐさ・けいこ) 昭和34年東京生まれ。『櫻翳』は第4句集。


                                          
                                                    桜木に↑
  

2015年11月18日水曜日

山田耕司「下萌えの逃げどころなくこれが老い」(「円錐」67号)・・・



「円錐」67号の特集「昭和が遠くなりません」が三回目で、これが最終。なかでは、宮崎莉々香(19歳)の「なぜ、今『新興俳句』なのかーこれからに向かって」が真摯でかつ初々しく好感がもてた。まだまだ俳句の世界も捨てたものではない、と思わせる。愚生にも少し気力がわく。一部分を以下に引用する。

 「新興俳句の何が新しかったのか。あれから約八十年を経た現在の地点から、俳句の表現史の青春を振り返り、私たちの新たな時代を生きる糧としたい。」とある(現代俳句協会青年部ホームページより抜粋)。しかし、なぜ、今なのか。私たちが今、新興俳句期の作品を見ても「新しい」とは感じないだろう。
 しかし、それでも私は藤木清子の句にドキドキするし、富澤赤黄男を読むと体に電流が走る。鴇田智哉の第二句集『凧と円柱』(平成二十六年・ふらんす堂』は構成等、高屋窓秋の『白い夏野』(昭和十一年・龍星閣)を研究して編まれたものである。

作品では、「円錐」の編集部の比較的若い二人の句を以下に挙げておきたい。今泉康弘は詞書き付きである。

    八月二十五日、丸木美術館にて「原爆の図」を見る。痛ましく傷ついた人々の群像。
    その中に、エロチックな裸体があり、見とれてしまう。
  原爆図にちちははの裸かな          今泉康弘

    八月三十日 国会前デモに行く。小雨の中、合羽を着て、議事堂や日比谷公園等を歩き回る。
    シュプレヒコールを唱和するのは、どこか照れくさい。直接行動は苦手なのだが・・・
  ポケットに檸檬国会議事堂前

  目の玉の羽化せぬことを遠花火       山田耕司
  ヒノマルとおぼしき布と軒時雨 




                      
                     永青文庫↑
★閑話休題・・・


とある日、都内に出た日に、少し足を延ばして永青文庫「春画展」を観た。待つことなく入館できたが、噂通り、老若男女で混んでいて、ゆっくり見るというわけにはいかなかった。むしろ美術館の中のところどころに置かれた調度品やフランスの皮装本の典籍の方に目が奪われた。永青文庫所蔵の春画は作品目録によると、「欠題十二ヶ月」(狩野派・江戸時代17世紀)と「艶紫娯拾余帖」(歌川国貞・天保6年1835年)の二点である。

 




  

2015年11月16日月曜日

四ッ谷龍「津波後三年門扉を門へ縛る綱」(「むしめがね」第20号)・・・



「むしめがね」20号の四ッ谷龍俳句作品は「いわきへ第6回~第8回」と題された被災地を詠んだ百数十句、第6回には2014年6月の但し書きがある。ちなみに第8回は2015年8月。
特集は『冬野虹作品集成』。特集の執筆者は、冬野虹の俳句・短歌・詩作品のそれぞれに、津川絵理子、鴇田智哉、杉本徹、井辻朱美と四名の寄稿者が配されている。各執筆者とも冬野虹作品に寄り添って、それぞれ執筆者の特質がうかがえるもので、愚生をよく頷かせてくれる。冬野虹の作品にそうしたものを引き出す資質がそなわっているのだ。
しかし、なんといっても、さすがに冬野虹の夫君だった四ッ谷龍の生活を共にしてきた強みで、その現実生活につながるリアルさにはかなわない。虹作品に引用された織物の在処を、余すところなく開陳していることには驚かされる。そのことを述べた「あけぼののために」は「一、君あらあらし」「二、穴川家の三姉妹」「三、野生の少年」「四、精神の空を飛び交う外国語」「五、デジタル」「六、コメディアン」「七、音韻は回転する」「八、クロスモーダルは創作の沃野」として35ページを費やしている。その中の一節には、

 虹が求めるのは、そうしたことばとはまったく対照的なものだ。ヘレンケラーが味わったような、はじめて飛び出してくることば、目覚めの喜びをうながすことばなのだ。金勘定や権力の保持のために使われる言語ではなく、夢を知るための想像力、つまり美を理解する力を与えてくれる言語なのだ。

また「クロスモダール」については、以下のように、注釈を加えている。

 通常、クロスモダールという語は、たとえば映画の画面にどのような音響や音楽を合わせると観客は興奮するかというように、復数の感覚刺激を並列的に与えることを指すのに使われる。しかし、私の場合はもっと突っ込んで、ひとつの事物を感覚をまたがって表現するという意味で用いており、一種の造語である。形容詞なので、名詞として用いるときは「クロスモーダル俳句」「クロスモーダル表現」などと書くのが本来正しいだろう。

この表現の特徴の端緒を芭蕉に見、冬野虹に見、最近の若い俳人の鴇田智哉、関悦史、斉木直哉などにみているのである。

さらに、それら虹作品の創作の契機をもたらしたさまざまなものを、論とは別に「冬野虹詩歌作品引喩集成」として巻尾にまとめている。労を讃えたい。

最後に、四ッ谷龍作品からいくつか挙げる(前書きは略す)。

   
   津波後三年門扉門へ縛る綱
   ゆきのした傘さすほどは降らざりき
   仮の家また仮の家また躑躅
   鹿踊(ししおどり)まるで兎が飛ぶように   
   ワイパーが人無き巷搔いて居り




2015年11月15日日曜日

「多田徳治の仕事展」(府中市グリーン・プラザ分館ギャラリー)・・・





今日は一日、冬の雨にさらされた。
愚生は、グリーン・プラザでの朝からの一日勤務。
府中グリーン・プラザ名作映画会は3日間の最終日だった。
「稲妻」(1952年、監督・成瀬巳喜男、原作・林芙美子)出演・高峰秀子三浦光子ほか、と「君よ憤怒の河を渉れ」(1976年、監督・佐藤純彌、原作・西村寿行)出演・高倉健、原田芳雄、中野良子ほか、である。
昼休みに時間つぶしといっては悪いが分館ギャラリーで開催(明日、15日まで・無料)されている「多田徳治の仕事ー神々の相貌を追って/原形へのまなざしー」展を観た。彫刻作品や木版画、あるいは古書の修復本など、また能面作品などが展示されていて、けっこう楽しませてもらった。曼荼羅の木版画には手彩色された作品もあった。軸も手作りとのことである。
名刺には、俳諧ならぬ「徘徊呆人・老楽倶楽部総支配人」多田徳治/綜芸工房弥右衛門主催・葵水会エイト漕手とあった。これだけでもちょっと面白い。おまけに「媚びない。めげない。頑張らない」と書かれていた。

帰宅したら、夕刊の新聞はパリ同時多発テロによる120人死亡の記事で埋められていた(なんということだ!)。


2015年11月12日木曜日

安井浩司「蓮折れば夕がらすのみ微笑して」(「詩あきんど」第20号評より)・・・



興味ある記事を目にしたので紹介する。
「HAIKAI其角研究『詩あきんど』第20号」(オフィスふとまにあ・編集発行 二上貴夫)の巻末【受贈書より】の、安井浩司『宇宙開』の紹介記事に(編集部とあるが二上貴夫であろう)、句集より70句が選句掲載されているが、それよりも、愚生が興味を持ったのは、以下の引用文の終わりに、引用された句が90余句にも及んでいることだ。それには、以下のように書かれている。

 ところで、わたくし共「詩あきんど」は非懐紙連句の実作に志しているのだが、「連句」の「第三」と似通う文体を安井氏が実作されているのに驚いた。「第三」の文体とは、連歌の式目に五七五の下五を「て」「に」「にて」「らん」「もなし」の五つで止めよとあるもので、俳句の文体に採り入れたものとしては、
  白桃を夢見てをりぬ病み呆けて     真鍋呉夫
  寒茜われもけものの影曳きて      『定本雪女』より
  竜骨となりし破船に月冴えて
等があったが、この様に多用した句集は珍しい。と言って連句の「第三」や「平句」の模倣ではなく、「発句」の必要条件である「切レ」についての、即ち「切=開」といった「手爾波留め」の実験と思われ、参考に次に書き出してみた。
  蓮折れば夕がらすのみ微笑して
  天地玄黄筆に濁酒をふくませて
  春のやみ御伽這子(ぼこ)らが跋扈して
  真日めざす後ろ開きの服を被て

と続き、90余句の引用となるのである。そして、また先の70句の選出には以下のように評してもいる。

選をして永田耕衣の言う、通俗的なるものを以って自己の通俗性を克服せよという「通俗性の荘厳」を思い出した。『宇宙開』の文体を想像世界と現実世界の組み合わせと取る批評もあろうが、そうではなく現実世界の通俗的なるものこそ超通俗性の宇宙的なる荘厳を得る道だと解したい。

見逃せない卓見だと思った次第・・・。



2015年11月11日水曜日

マリー・ローランサン(府中市美術館)・・・




昨日は一日雨に降り込められていた。ただ、昼過ぎに病院まで、山の神の付き添いとあいなった。
病院の場所が東府中だったので、待ち時間をつぶしに、歩けば近くにある府中の森・府中市美術館についでとばかりにマリー・ローランサン展(~12月20日まで)を観た。府中市政60周年の記念行事のひとつでもあるらしい。
府中の森美術館はそれほど大規模というほどではないが、愚生には程よい大きさでそれなりに気に入っている。散歩がてらにはちょうどいい。
牛島憲之記念館が併設されている。そして、常設には、高橋由一、青木繁、村山槐多、三岸好太郎、長谷川利行、国吉康雄、梅原龍三郎、岡本太郎、難波田龍起、松本俊介などがあって、悪くない。
けっこう気に入っている。
次回展示は、府中市美術館の玄関前庭に埋まっている「地下のデイジー」の作者・若林奮「飛葉と振動」(2016年1月9日~2月28日)。若林奮は没後13年らしいが、生前64,5歳頃、愚生の新陰流兵法の師ともいうべき前田英樹が50歳頃に出版された対談集『対論 彫刻空間』(書肆山田2001年刊)がある。その最後に収められた「あとがきにかえて」で前田英樹は以下のように記している。

 若林さんの作品には、何か人間種の重荷を渾身で支えるような想像を超えた誠実がある。「歴史よりも人間が初めて絵を描いた事実に現在の私を直接結び付けてみよう」、この言葉は、たぶんそういう人にだけ許された眼を語る言葉なのでしょう・・・・



2015年11月10日火曜日

三橋敏雄「春や永き沖積層と星の舎」(『沖積舎の43年』)・・・

                     扉題字・西脇順三郎↑
口絵句・三橋敏雄↑


沖山隆久が新宿中落合のアパートの一室から沖積舎を起こして43年になるのだ。
『沖積舎の43年』(沖積舎)の小冊子は、「感謝と反省を込めて関係各位に敬呈するものである。平成二十七年春 沖山隆久」(あとがき)とあった。「その間詩歌句集、評論、画集、全集など約一五〇〇点あまり出版した」ともある。冊子は3章で構成されているが「1は先輩の玉文、2は紹介記事、そして3は小生の駄文です。それぞれ再録させていただきました」という。ざっと眺めただけだが、その1に掲載された方々はこれまで、沖山隆久が敬愛し、頼りにした人物ばかりだが、鬼籍に入られた方も多い。例えば西岡武良、和田徹三、壽岳文章、鶴岡善久などの名がある。その3にある「子供のころからの夢だった時間をかけた文芸書づくり」「美しい造本の句集『白い夏野』」などの文章に触れると、沖山隆久の初志がうかがえる。
思えば、創立が昭和49年、彼が24歳の時だというから、その頃だろう。愚生が働いていた吉祥寺・駅ビルの弘栄堂書店に風呂敷に本を包んで、置いてくださいと訪ねてこられたのは・・・。その頃はまだ、書店と直接取引を出版社ができた時代だった。ちょうど詩歌の担当だった愚生は、その直接取引のお蔭で、まだ若かった幾人かの版元、自費出版をした詩人や歌人、俳人とも知り合うことができた。
その沖積舎の最初期の頃、坪内稔典や久保純夫が沖積舎から句集を出した。また、愚生の句集もすすめられたことがあったが、ついに愚生の怠惰で実現しなっかたことなど、思えば懐かしい。
沖山隆久の43年は、愚生にとっても、二十歳代から数えて、それだけの年月が経っているということでもある。
現在の沖積舎は、夫人となられた俳人・伊丹啓子がよく支えているとも記されていた。慶祝。




2015年11月7日土曜日

行方克巳「素数わが頭上になだれ冬銀河」(『素数』)・・・



行方克巳(なめかた・かつみ)、昭和19年千葉県生まれ。句集『素数』(角川書店)は第七句集。「あとがき」に記す。

 俳句の五・七・五と十七音、また短歌の三十一音、いずれれも素数である(藤原正彦氏)。一とその数自身の他に約数を持たない正の整数は無限に存在する。しかし私が常に求め続けてきた短詩型の五音七音の音数律が、素数に関連するという事実に、私は少なからず興味を覚えたのである。

序文は中西進。題簽の揮毫は津金孝邦。中西進はその序文「素数詩としての俳句」に述べる。

 そしてさらに作者自身の身構えの上にも、素数的態度が要求されるはずだ。
 右にいう素に生きる者こそが、素数詩の作者となる。
 俳人は素数に生きよ。俳句は素数の如く物象を把握せよーーまずはこうした提言をわたしは行方から受け取る。 

 見事なる言挙げである。素数はともかく、いくばくのユーモアのしずくを思わせる趣の句が愚生には好ましく思われた。
ともあれ、いくつかの印象に留めた句を挙げておこう。

   白菊や死に顔をほめられてゐる     克巳
   啓蟄の男一匹出かねたる
   六千ボルトの夏に感電してしまへ
   骨肉を剥がれ晩夏の義手義足
   晩緑といふべし大いなるは静か
   鰭酒にだんまりの舌灼きにけり
   白椿万巻の書のみな白紙
   紙風船突くより叩き返すなり
   嵐電の終電はやき春灯




   
   
   

2015年11月5日木曜日

久々湊盈子『歌の架橋Ⅱ-インタビュー集』・・・



久々湊盈子『歌の架橋Ⅱーインタビュー集』(砂子屋書房)は、彼女が編集発行人を務めている「合歓」に毎号連載されていたインタビュー集の第二弾である。本集には、秋山佐和子(2008年8月5日 町田市玉川学園の秋山邸にて)から伊藤一彦(2015年5月25日 宮崎県立図書館名誉館長室にて)まで29名が収録されている。第一巻の『歌の架橋』は2009年8月で6年前のことだとあった。さすがに一巻目のインタビュー集ではすでに15名の歌人が鬼籍に入られているという。愚生も「合歓」をいただく度に、このインタビューを楽しみにしている。歌には門外漢の愚生にも幾人かの昔からの知り合いもいる。
インタビューされた多くの方々の中から、愚生と同じ「豈」同人の藤原龍一郎(かつて月彦の俳号をもつ)の記事を以下に少し紹介したい。

藤原 (前略)短歌はその時代とスパークするものを瞬間的に書くことが出来ると思うし、俳句はある意味では永遠性を求めているように思います。何か深いことを一つ言おうとするとき、俳句の方が深く突き刺さってくるものになる。例えば三橋敏雄さんの「いつせいに柱の燃ゆる都かな」という句は千年前に作られた俳句ということもできる。応仁の乱であってもいいし、9・11にも当てはまる。それに対して短歌では9・11を契機にしてその時の瞬間的な心の動きを歌う、ということだと思うんです。(後略)

インタビューで掲載されていた短歌もいくつかあげておこう。

  夢想するゆえに世界は存在し言葉こそ花腐爛せる華       龍一郎
  ついに近江を見ざる歌人として果てんこの夕暮のメガロポリスに
  檸檬なる浪漫果実皿にのせ刃を入れてのち孤立を択ぶ

久々湊盈子(くくみなと・えいこ)は1945年2月上海生まれ。1976年「個性」に入会、加藤克己に師事。1922年「合歓」を創刊。俳人・湊楊一郎は舅、先年亡くなった長澤奏子は実姉。
「あとがき」に「毎回、どなたにお話を聞こうかと思いめぐらせて少しずつ準備をしてゆく時間がとても愉しい。さらに基本的にお住まいの近くまで出かけていってお話をうかがうというのをコンセプトにしているから、これがまた愉しい」と記している。





2015年11月3日火曜日

武馬久仁裕「夜の河またも知らないもの流れ」(「子規新報」)・・・



「子規新報」(第2巻第52号)の特集は「武馬久仁裕の俳句」だ。
特集のための武馬久仁裕30句の抄出は小西昭夫。自筆略年譜によると、武馬久仁裕は1948年、愛知県丹波郡古知野町(現江南市)とあって、生まれは愚生と同年である。
彼と最初に会ったのは、たぶん「現代俳句」(南方社)のシンポジウムが名古屋で開催されたときだったとおもう。だが、それもすでに40年近く前?のことになるから記憶ははっきりしない。その頃は、彼の師であった小川双々子(「地表」)が健在で、そのシンポジウムの成功に協力してもらい、よく支えてもらった記憶がある。実に若かった愚生らの世代を応援していてくれたような気がする。その後、攝津幸彦との「豈」創刊の折りには「地表」のメンバーが幾人か道を共にしている。
また、武馬久仁裕と愚生とは「未定」創刊、「船団」創刊では同じ道を歩んだ。あるいは愚生の『大井恒行句集』(ふらんす堂文庫)の解説では清水哲男、福島泰樹とともに、彼に玉文をいただいた。
今回の特集の抄出句の中から、以下に少し挙げておこう。

    定期券差し出す右手薔薇を出す              久仁裕
    広島に生まれるはずはなかったのだ
    階段を上がる人から影となり
    列島に帰る行列から抜ける
    初夏の男女は二足歩行する

実は、「子規新報」には必ず目を通す連載が二つある。宇田川寛之の「となりの芝生ー短歌の現在ー」と堀本吟「近くの他人ー現代川柳論ー」で、いずれも100回を超えている(宇田川寛之は133回)。
愚生にとっては、短歌・川柳を覗き見る小さいながら大切な窓である。もちろん、小西昭夫は、ときに寺村通信などと名乗って相変わらずの健筆をふるっている。どうやら東莎逍こと、東英幸も健在らしい。
因みに武馬久仁裕のホームページ「円形広場+俳句+ART」は以下。

      http://www.ctk.ne.jp/~buma-n46/



2015年11月2日月曜日

前田弘「でで虫にバイキバイキと声をかけ」(「歯車」366号)・・・



本年4月には「歯車」の前身「風」が創刊されてから60年の節目とあった。11月22日には「歯車」全国大会が開催されるという。表紙には前代表の故・鈴木石夫の句「毛糸編むとは永遠をまさぐることか」が表紙絵ととともに描き込んである。
巻頭の特別作品は前田弘「半可句祭」50句。タイトルの「半可句祭」は、「半可臭い」北海道・東北での「ばからしい」「あほらしい」の当て字だろう。

   でで虫のバイキバイキと声をかけ        弘
   (バイキバイキ)は馬を後退させるときの掛け声。バックバックがなまったもの)
   はんかくさいじじいでごめん狸の子
   馬糞風泥んこの子がだはんこく
   人間ばんば故郷の駅が消えた
   水槽に水のかたまり青水無月
   千人針に久長運武秋立ちぬ
   雁首をそろえ八月十五日

「歯車」には幾人かの知人がいるが、まずは「豈」同人でもある若き杉本青三郎を初めに幾人か挙げさせていただこう。

   すぐ折れる翼ならある蜃気楼      杉本青三郎
   むかしむかし手は足であり鶏頭花     〃
   誰かが植えた樹でわたしが涼しい    田中いすず
   手拍子の整然たるに稲びかり      藤田守啓
   稲刈りや田んぼのこれが更衣      青木啓泰
   僕が僕であってよかった日のトマト    大坪重治
   黒百合やまっさかさまに日傘散る    佐藤弘明