2016年4月22日金曜日

近藤栄治『俳句のトポスー光と影』(沖積舎)・・・



近藤栄治1949年、愛知県生まれ。俳誌「青垣」(代表・大島雄作)会員とある。また、第30回現代俳句評論賞を「高柳重信ー俳句とロマネスク」で受賞という。
本書第一章にそれは収載されている。他には「龍太俳句と風土」、「永田耕衣論ー耕衣を読むための第一課」、そして、量的には本書のほぼ半分を占める、出色にして力作の河東碧梧桐論。収載された俳人はいずれも特別に魅力的な俳人四名。共通しているのは,俳句と自身に忠実に生きた作家ということになろうか。
こんなことが書かれている。

  重信の多行表記の試みは発句の延長としての俳句ではなく、それ自体として独立した表現形式を求めるという強い意志を表明するものであった。さらに言えば、時代と拮抗する作者の内面の表白をその形式にぶつけることで、さらにその表現形式の意味合いが深化されていったのだ。それは本来的には、ごく自然な詩(うた)の在りようである。しかし、それを支持しないまでも理解するひとは少なかった。

そして、別のところで以下のようにも指摘している。

 ひとつは彼の批評精神は言葉の表現形式に不断に意識的であることに拠っているということ、二つ目は詠まれた素材ではなくあくまでも表現された言葉の在り様を批評の対象としたこと、三つ目は様式へのあくなき執着。この俳句形式とその様式への執着が、重信において終に俳句を詩から分かつことになったということだ。これら三つのことは、重信にあっては緊密に絡み合って、その批評精神を形成した。そしてその批評精神が向かった先は、最後まで俳句であった。

そうなのだ。ついにめぐり逢うことない幻の俳句。いまだ姿を現さぬ何かだった。思えば、高柳重信はそれほど多くのことを語ったわけではない。最初から最後まで俳句に対する志をのみ繰り返し語っていたのではなかろうか。その意味では、本書に収載された飯田龍太も永田耕衣もそうだった
ように思う。
最後に、碧悟桐論の結びを引用させていただく。

 このように碧梧桐は俳句界では敗残者の烙印が押されてきたが、碧梧桐が残した仕事の大きさと現代俳句への影響を考えると、改めて碧梧桐の全体像が見直されてほしいとと思う。碧梧桐の自由律の道は、若き日に出会った俳句への断ち難い思いと、新たな詩精神の発揚との葛藤であった。そのことが俳句との決別を遅らせてしまったのであり、それはひとつの不幸であったが、そのこを以て碧梧桐を批判するには当たらない。俳句は今もそうした葛藤を引き受けつつ、俳句として生きているのだから。




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