2016年4月5日火曜日

神田ひろみ『まぼろしの楸邨ー加藤楸邨研究』(ウエップ)・・・



サブタイトル「加藤楸邨研究」が示している通り、資料収集と著者の見解は客観的な資料を駆使して語られている。「あとがき」によると加藤楸邨の資料調査のためにJR常磐線・相馬駅にあるキリスト教の、

 中村教会の生野碩保先生に初めてお会いして、いれて頂いたお茶を一口か二口のみかけたところに大きな地震が起きた。教会堂の厚いテーブルの下にもぐりこむと上から、お茶が滴ってきた。(中略)古い木造の教会堂はメリメリと音をたてて軋んだ。長い長い五分間であった。平成二三年三月一一日、楸邨先生が少年の頃通った福島、相馬の教会で大地震に遭遇し、私は生きることの意味を胸につきつけられた。激しい余震の中で資料を読みとろうとする私のために、生野先生が祈ってくだった言葉を私は忘れることができない。
 人間とは何か。人間の幸福とは何か。
 楸邨六二年の句業は、そうした生きることと表現との相克の上にあったと考えるようになった。

と記されている。
研究書のゆえであろうか。第二部の年譜、第三部の資料編にも大冊約400ページ近くのおよそ半分のページが割かれている。
とりわけ、興味深かったのは第一部「俳句作品にそって」の北村透谷の「内部生命論」と楸邨「真実感合」との対比、影響を論じた部分だった。

 楸邨はこの「自分そのもの」(原文・傍点あり)即ち「内部生命」によって「自然そのもの」(原文・傍点あり)の真実(透谷のいう「宇宙の精神」)に「感合(傍点あり)」(透谷のいう「インスパイアド」)すること、つまり、把握するということにむすびついたと考えられる。透谷の「感応」と楸邨の「感合(傍点あり)はよくその近接が言われる斎藤茂吉の歌論「実相に観入して自然・自己の一元の生を写す」という「実相観入」の「観入」の語よりもよく似たひびきを持つ。

あるいはまた、「ふくろふに深紅の手毬つかれをり 楸邨」の句に対して、さまざまな解釈がなされているが、「この幻想的な作品は、楸邨の亡き子への挽歌と推定できる」という。つまり、「いまも亡き子に、深紅の手毬をつかれている私は、老いた梟のようであるよ」と・・・。

神田ひろみ 1943(昭和18)年弘前市生まれ。現在、三重県津市在住。

                                             ヤマブキ↑

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