2016年5月31日火曜日

坪内稔典「鬼百合がしんしんとゆく明日の空」(『坪内稔典百句』)・・・



掲句は、第二句集『春の家』(1976年)所収とあるが、発表されたのは「俳句研究」1973(昭和48)年8月号で、第一句集『朝の岸』(1973年3月)刊行の年と重なる。塚本邦雄は『百句燦々』(講談社)で冒頭、以下のように記している。

 何がゆこうと驚くことはない。昨日の空の色など今日は面影を止めず、第一空自体が明日存(あ)るかどうかわからないのだ。せめてその明日、空がまだあることだけは作者が保證してくれたのを僥倖といふべきだらう。

一方、『坪内稔典百句』(創風社出版)のなかでは、薮田惠津子が、現実の光景に仮託して以下のように鑑賞している。

 作者の故郷である佐田岬半島では夏、至るところにこの鬼百合が咲くそうだ。作者は幼いころから慣れ親しんだこの花に、言葉にならないような決意を重ねたのだろうか。その決意を秘めるさまが「しんしんとゆく」であり、「明日の空」は、決意が未来へと続くことを読者に想像させる。 

坪内稔典29歳の時である。 
別の頁でわたなべじゅんこが、輝く『朝の岸』から、二句、無季の句を選んでくれているのは、坪内稔典(当時はとしのり)の出発の困難さを引き受けるにふさわしいことだった。
その二句は、
  
   石蹴りの石消え赤鬼じーんと来る      稔典
   塩鯖がかっと目をあけ雑木山

百句の中の残りの無季一句は、『落花落日』所収で藤井なお子の鑑賞は「『喪の家を出るいくつもの春の道』と共に鑑賞したい」とある。

  煮こぼれる死者の家でも隣りでも



                  オリーブ↑
  

2016年5月30日月曜日

片山由美子「アルプスの嶺を映して植田かな」(『昨日の花 今日の花』)・・・



片山由美子俳句日記2015『昨日の花 今日の花』(ふらんす堂)の本日、昨年の5月30日(土)の句が掲句である。以下のように書かれている。

 五月三十日(土)         【季語=植田】 

 「狩」の恒例の勉強会、「狩くらべ」で長野県の白馬村へ。雪を残す白馬三山が目の前に迫る絶景。こあたりはまだ田植えが終わったばかりのところが多い。

    アルプスの嶺を映して植田かな

という具合だが、愚生もたまには病院に検査に行かねばならない事情が出来て、気楽に読めると思ってバックに入れ、待合の間に、読ませてもらった。片山由美子は、愚生の若いころから、それなりに知っているつもりだったが、この日記によって、随分、いろいろ彼女の知られ笊一面を知ることができて、楽しかった。
例えば、なかなかの大相撲ファンだったり、愚生と同じく、鰻が食べられなかったり、フラメンコや書道にも励んでいるらしいこと等々。音楽会にも相当通い詰めているらしいこと。もちろん健康管理にも心を砕いてきちんと検査を怠っていないことなど、忙しいスケジュールをこなして行くには、まさに体力勝負のようなところがあるが、ワタシ低血圧症なのよ・・・、と可愛いことも仰っている。
それにしても、愚生とは全く違う階級にあるらしく、それなりに優雅な暮らしぶりであるというこも知れた。
とはいうものの、あれもこれもどうやら俳句のために賭している日常なのであろうと推測する。
健勝を祈るばかりだ。確か『昨日の花』は日野草城だったとおもうが、片山由美子は「今日の花」も加えている。ちなみに書名ともなったその句は9月14日、

   けふの花昨日の花や醉芙蓉       由美子

以下にいくつかの句を挙げておこう。

  抱かれて大根は重さ増しにけり  (おおねと言うと、なにやらゆかしいものに思えてくる)
  姉妹の名惠子由美子や昭和の日
  真昼間の時を盗みて青蜥蜴
  丑の日や鰻ぎらひを通しけり
  三日とはもたぬ天気や九月場所






  

今井聖「パジャマ来て足から鯉幟になる」(「街」NO.119)・・・



「街」の巻頭連載論文に今井聖「試行燦々」=「名句に学びなし、なんだこりゃこそ学びの宝庫」というなかばヤケクソ気味とも思われる連載がすでに25回目を迎えている(けっこう面白く読ませていただいている)。
今回は、草田男の「蟾蜍長子家去る由もなし」を材料にしている。この句を読み解いていくわけだが、草田男のかたくなな季語ゼッタイ信仰については、以下のように正しく記している。

  季語が一句にとって取り替えのきかないものであるのが秀句の条件という先入観があるからだ。結婚して幸せに暮らしている人に、別の人でもうまくいったかも知れないと発案するようなものだ。言われた側は怒り出すに違いない。でも試しに入れ替えてみるくらいはいいではないか。季語が唯一絶対のの神話はそこから本意をテーマにすとする俳句論議が生じ、ひいては俳句の可能性を限定することに繋がる。
 この季語伝説は改めた方がいい。

最後に「草田男は平手造酒だ。なんだこりゃこそ学びの宝庫」と落ちがつく。「大利根無情」を例にして「行かねばならぬのだ。妙心殿」、落ちぶれ果てても平手は武士だ・・・と説得するのだ。
ここでは次ページにある「街」推薦句「先鋒四十七士」にならって、愚生ならば、吉良の刃傷松の廊下ふうに仕立てて、「お放しくだされい、梶川殿!五万三千石所領も捨て、家来も捨てての刃傷でござる。武士の情けをご存知あらば、その手はなして、いま一太刀、討たせてくだされい、梶川殿・・」の場面だろう。

ともあれ、今号の「街」に、寄稿「特別取材」「北海道の異才=依田明倫」(l聞き手・栗林浩)に敬意を表して、依田明倫の句を、その中から拾おう。

  焼酎売れずば飲んで減らしけり      明倫
  ラッセル車母の霊柩車が続く
  散水車じやおじやあパイプオルガンと正午
  今も地雷原バリケードと白ぶだう
  牛舎火事火の粉かぶりの川眠らぬ



                    
                 麦秋↑

2016年5月28日土曜日

堺谷真人「透明な象のし歩くプールかな」(第130回「豈」東京句会」・・・



本日は隔月ながら、記念すべき「豈」第130回東京句会だった(於:白金台福祉会館)。
過ごしやすい気候だった。
以下は、一人一句。

   月涼したこ焼き語りつくしても      鈴木純一
   きれいに曲がる捩花の精神       杉本青三郎
   仕立てよき恋たわむれる天使魚      早瀬恵子 
   聞こえないふりをしてゐる扇風機    堺谷真人
   老齢や束ねた牡丹百言す        岩波光大
   晩年に晩年を継ぎ夏蝶となる      福田葉子
   九条の国に咲き継ぎ桐の花       羽村美和子
     みなづきの木にのぼらする花の水     大井恒行 



2016年5月27日金曜日

杉本零「大好きな苺ケーキの苺にキス」(「鷹」6月号)・・・



「鷹」の毎号のグラビアページに、「現代俳人列伝」がある。今回の杉本零(すぎもと・ぜろ)で連載191回目である。愚生が毎号楽しみにしているページだ。単純に計算しても約16年続いていることになる。迂闊にも筆者に注意を払わなかったので、恐縮だが、現在は、髙柳克弘の執筆である。
当該俳人の写真と、代表句と思しき作品が12句、俳人の略歴が記されている。そのモノクロの写真だが、昔のものとなると、なかなかに肌理が粗くて、それが一層懐かしさを誘うから不思議だ。それにしても、昔の俳人は、俳句に対して真正面に向かっている印象があって、心持ちがいい。杉本零には「情感ある写生句」という題が付されている。
杉本零、昭和7年11月23日~昭和63年2月21日、東京生まれ。

    シグナルが青くて青い春の雪       零
    大好きな苺ケーキの苺にキス   
    いつまでも一つ年上紺浴衣
    落ちてゐる紙に文字ある枯野かな

以下は「鷹・日光集」から一人一句、高齢の方々も健在。

   夜桜へ誘ふ悪女ももう来ない          星野石雀
   春暑しソープランドの排気口          布施伊夜子
   人間らしく紅梅の土踏みゐたり         細谷ふみを
   聞こえねば笑み返しけり春ともし        山本良明
   吉事(よごと)呼ぶごとく蝌蚪の揺るるかな   奥坂まや



                                           タイサンボク↑

2016年5月26日木曜日

武藤雅治「ふりむけばかあさん、あ、いたいよお、あ、いたいよお、ふりむけばか」(『あなまりあ』)・・・



武藤雅治、歌誌「月光」に所属と記してあるから、福島泰樹との縁である。生まれは1951年、神奈川県。句集も『かみうさぎ』『花蔭論』と2冊ある。歌集は、本歌集で第6歌集とあった。著者「覚書」によると、

 十数年前から「朦朧体新定型」、あるいは「みそふたもじ短歌」と自称する作品を詠んできた。黄金律の「定型」に並行して、ひそかな、実験的な思いを込めて詠みつづけてきた。

という。「みそひともじ」ならぬ「みそふたもじ」というわけだ。また、こうも記している。

ひそかな、実験的な思いなどと気負ってみたものの、ぼくの朦朧体」は、しょせん高瀬作品の亜流なのかも知れない。だが、亜流のなかからではあっても、独自の定型意識を、これからも模索し続けたいと思う。

高瀬作品とは、「短歌人」発行人だった高瀬一誌の短歌作品のこと。その高瀬作品えお評して、小池光は、

まず、リズムであるが、短歌特有の流麗感に全く乏しい。絶対に朗詠できない歌である。要点をぶっきら棒に言ってしまって、それで終わる。
 といって自由律かと思えば、それとも異なる。どこかに不思議と定型の痕跡が残っている。高瀬独特の奇妙なリズム感である。(中略)
 それ自身、永遠性、絶唱性を至上とする「うた」への類例のないアイロニーである。(『現代歌人250人』牧羊社)

という。ともあれ、以下にいくつかの作品を挙げておこう。

  いまだも天皇の裡に棲まふわたくしたちを撃つ奥崎謙三か三島由紀夫か   雅治
  そのうちにきつとまちがふだらうからそんなのいそぐこともないのにさ
  かげろふのやうにコスモスが咲いてゐるフクシマと呼ばれても美しい
  このほしにこはれないものはないがてのひらにひかりのたまごをのせて
  ふたつみつしはぶきがしてはじまる夜から終りのない夜がはじまるのだ
  わだつみの沖くれなづみほのじろく水漬くかばねのうねりうねりなす波
  あつちからみればまざはりのえだもこつちからみればなくてはならない
  あの人もこの人もみなさん血をぬかれてかへつてくるときはいい人です
  せうふくをきるとなんとなくできるかもしれないとおもへてしまふから



               クリの花↑

2016年5月25日水曜日

石牟礼道子「祈るべき天と思えど天の病む」(『石牟礼道子全句集ー泣きなが原』)・・・



「鬣」第59号の特集は、第14回「鬣」TATEGAMI俳句賞授賞の評で、石牟礼道子『泣きなが原』(藤原書店)と小宮山遠『林棲記』(創榮出版)について、それぞれ外山一機「いま、石牟礼道子を読むということ」と水野真由美「『林棲記の闇と光へー小宮山遠」が掲載されている。
石牟礼道子「祈るべき天と思えど天の病む」の句について、外山一機は言う。

 これは本当にそれほど優れた表現なのだろうか。この句から「並々ならぬ物語性」(愚生注:岩岡中正)だとか「断念という万斛の想い」だとかを想起することが本当にできるとは僕には思えない。むしろ、そのような読みは「石牟礼道子」という名を併記してあるからこそ可能ではないのか。
 だが、それよりも僕にとって興味深いのは、石牟礼をしてこのような無残な句を詠わしめた俳句形式の力である。(中略)
 話を「祈るべき」の句に戻せば、この句の無残さの根源は、石牟礼が自らの足元にある豊かな言葉を呼び寄せることが出来るにもかかわらず、それを断ち切ったところからこの句を立ち上げたことにある。しかしながら、これは、俳句形式で表現するという行為が本質的に孕む暴力性を思えば当然の成り行きでもあった。

あと一文は水野真由美が冒頭に抽いた小宮山遠夜を容れて水の器(うつわ)の遠江(とおとうみ)の句には、愚生、唐突ながら、河野裕子の短歌「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」を思った。



*閑話休題・・・
「風の花冠文庫」17として『定本三橋敏雄全句集』が本年8月に刊行される予定である(上掲案内広告↑)。この刊行は、ひとえに林桂をはじめとする鬣の会の諸氏の尽力によってその日の目をみることになったといっても過言ではない。定価はまだ決まっていないが、問合せ先は林桂、または鬣編集部(371-0018 前橋市三俣町1-26-8 山猫館書房 電話027-232-9321)宛である。是非、予約その他をお願いできれば幸甚である。



                                                       ビヨウヤナギ↑

2016年5月24日火曜日

栗林一石路「大砲が巨きな口あけて俺に向いている初刷」(昭和12年作)・・・



小説にしろ、俳句にしろ、芸術・文芸は時代の思潮の波を受けざるを得ない。雑誌の特集によっては、それらの句の見え方も違ってくる。その意味では過ぎ去った時代に、どのような、散文が書かれ、またどのような韻文、句が詠まれ、残されたのかは、その時代背景とともに、繰り返し探られてよい課題だ。
「俳句界」6月号(文學の森)の特集は「小説と俳句が描いた時代」であり、なかでも、昭和初期の小説に小林多喜二『蟹工船』を選び、句を選んだのは、昨年以来の、我が国を戦争をできる国家へ、海外において戦争が可能となる国家への為政者による法案の整備。憲法改正が、現実的な射程に入り始めた現在、只今の情勢に相応しい特集のなかの一項目だと思われる。
大正デモクラシーの余燼(自由の謳歌と同時に徹底した弾圧)がくすぶる昭和初期、わずか10年ほどで、戦争に突入したのだ。新興俳句運動の弾圧までだって15年しかない。本特集に引用された昭和初期の句をいくつか挙げよう(因みに、一石路のブログの掲句は昭和12年作、日中戦争勃発の年)。
      
   死ぬものは死にゆく躑躅燃えてをり     臼田亞浪
   咳をしても一人             尾崎放哉
   分け入つても分け入つても青い山     種田山頭火
   つる草もつて工場が閉鎖している      橋本夢道
   まゝごとの飯もおさも土筆かな       星野立子
   あばらや屋を人垣すなる除隊かな     阿波野青畝
   巨き船造られありて労働祭          山口誓子 
  

因みに、本特集の他の時代区分を参考までにあげておくと、「元禄時代・井原西鶴『好色一代男』と元禄時代の俳句」、「明治後期の俳句と島崎藤村『破戒』」。「大正中期の俳句と志賀直哉『暗夜行路』」、「高度経済成長期の俳句と山崎豊子『不毛地帯』」。


ブラシノキ↑

2016年5月23日月曜日

上田貴美子「祈らねば無機質の帯冬銀河」(『暦還り』)・・・



句集名『暦還り』(角川書店)の由来の句は、

  暦還りして二十年桜餅      貴美子

昭和51年「万蕾」(主宰・殿村菟絲子)に入会とあるから、句歴も長い。第三句集だという。現在は「街」同人。というわけで帯文は今井聖、

  しやぼん玉祈つて歌つて無信仰   貴美子

ここに上田貴美子という裸の存在がある。
自分自身に向けられる虚飾の無い凝視。
そこから薫ってくる知性と含羞。
これが俳諧でなくて何だろう。

と記している。また、著者「あとがき」には「暦還り」について以下のように述べて、俳句との関わり合いを吐露している。

私は予てから六十歳で迎える「還暦」は¨暦を還す¨ことと考え、それから一年一年若返っていく事と思い込むことにしてまいりました。
 子離れの為に始めた俳句でしたが、いつしか¨俳句いのち¨になり生き甲斐となって居りました。

上田貴美子、昭和5年、東京生まれ。

以下にいくつかの句を挙げておこう。

  
   曼珠沙華どこに坐しても母隣
   向日葵に鬱といふ字のやうな蕊
   夭折も長寿もひと世雪しまく
   励ましのならぬ病や菱の花
   十年も金魚のゐない金魚玉
   人声が人の形に夏の霧
   秋の滝何纏ひても透きとほる
   祈らねば無機質の帯冬銀河
   


                 
                 シャリンバイ↑

2016年5月22日日曜日

宮入聖「木犀の金の兵隊銀の寡婦」(〔宮入聖という俳句〕21〕・・・




掲句は、山内将史の個人通信「〔宮入聖という俳句〕/2016年4月22日/投函日ト異ナル」より。
宮入聖はその復活を期待されている今では伝説の俳人となってしまった。たしか攝津幸彦と同年生まれではなかったろうか。まさに彗星のように駆け抜けて行ったという風情である。冬青社という版元をみずからで起こし、「季刊俳句」を編集・発行したばかりでなく、若くして自らの多数の句集、評論集、小説集などを上梓した。父は人間国宝の刀鍛冶・宮入行平。
本通信に山内将史は以下のように書く。

  ものかげの永き授乳や日本海     澤 好摩
  滴りや性慾巌のごときもの       宮入 聖
  致死量の月光兄の蒼全裸(はだか) 藤原月彦 

私の関心から言えば、宮入聖と藤原月彦に代表される昭和二十年代生まれの俳人達だけで、俳句は始まり、俳句は終わっている。昭和十九年生れの澤好摩も加えよう。彼らは俳句の撤退戦をしたと思う。そのあとにまだ俳句は残っているかもしれないが、俳人は残っていない。

以下は、宮入聖第一句集『聖母帖』より、

   噴水とまりあらがねの鶴歩み出す      聖
   滴りや性慾巌のごときもの
   蜀葵母があの世へ懸けしもの
   瀧壺を見てゐる人の重心や
   鉄瓶の蓋ななめなる夜の秋







2016年5月21日土曜日

須原和男「名ばかりの秋風八月十五日」(『五風十雨』)・・・



句集名は、

   戸隠の五風十雨の花野かな       和男

の句から。「あとがき」に、

この言葉も意味は、五日に一度の割合で吹く穏やかな風、十日に一度の割合で降る恵みの雨ということであり、異常な暴風とか、豪雨、豪雪などは含まない。こ程度に風雨のある天候の状態が、日本の風土、特に農耕を主とする地帯にとては望ましいとされる。(中略)
平成二十七年は、師・川崎展宏の七回忌にあたる年であった。それは師の風姿・風貌を追慕し、同時にまた、右二句をはじめとする師の作品群を熟読しなおす機会でもあった。前句集『國原』と同様、本句集『五風十雨』を、再び川崎展宏先生の霊前に献じたい。

とある。右二句とは、

   おでん酒百年もつかこの世紀      展宏
   あらぬ方へ手毬のそれし地球かな

である。師・川崎展宏は「過激なる花鳥諷詠」を自任したそうである。その師に献じられた句集の中から、いくつかを挙げておこう。

   父母未生以前(ぶもみしやういぜん)の枝に初櫻      和男
   黙禱の眼(まなこ)ひらけば春の闇
   琉球の西(いり)も東(あがり)も土用波
   行つたのか来るのか雷を抱ける雲
   会釈して日の短きを言ひあへる
   おとろへは太陽にあり冬櫻
   またしても鳩の割り込む七五三
      奥多摩
   三寒に四温に青みゆく御嶽(みたけ)



2016年5月20日金曜日

川野里子「ここであそこで鳴る鐘おほいなる楽器となりてこの町しづか」(「エフーディ)VOL2)・・



「エフーディ」は短歌と俳句の秘密結社だそうである。月に一度、都内で歌会と句会を交互に行う歌人・俳人・詩人・小説家のグループなんだとか。秘密結社とあるから、ここで紹介するのは、ちと、憚られるが(秘密じゃなくなる)、大分県竹田市・公報の「エフーディ」紹介記事にそうあったので、とりあえずそういう風に記しておこう。
今号は、その竹田の〈隠しキリシタン〉吟行の特集である。つまり、竹田はキリシタンの里でそこでのトークの仕事や市内を見学しての、それぞれのジャンルを横断して創作された作品でページが埋められている。興味深いものばかりだが、詩編、エッセイなどは割愛させていただいて、各一人一句・一首を以下に紹介したい。
 
  寒林の空や飛ぶものかがやかす                高柳克弘
  男根の隠喩としては古びたる茸赤しよ朝の林に

  清掃の名目で飛び込む 霧へ                  石川美南
  高熱の夢に踏む花踏む楽譜(絵踏みは季語と誰かに聞いた)

  十字架を南無阿弥陀仏にも刻む                東 直子
  小さき栗手の中に入れ歩きだす春には燃える草ふみながら  

  虫の音と革命のないカードゲーム               平岡直子
     
      「火あぶり、縛り首、磔・・・・ここでたいていの処刑はしました」と鏡処刑場で市役所の人         
      は告げた。
     夕刊のトップニュースかもしれない。
  あるだけの鉄道模型敷きつめて踏み絵といえばバージンロード

  草踏めば超新星爆発飛蝗(バッタ)散る           三浦しをん
  薔薇のない地でも血潮は流れけりせめて手向けよ赤きカメリア

  処刑場跡地を巡る冬の水                   平田俊子
  
  蓮根町どのトンネルも風かよひここに育ちぬ燕のように 川野里子
  頭のうえを千年前の雲飛べり肥後の赤牛豊後の黒牛  小島なお

川野里子は歌人にして、大分県竹田市生まれ。歌誌「かりん」編集委員。



      

2016年5月19日木曜日

浅沼璞「きよしこの夜の浴槽たたきける」(「俳句四季」6月号)・・・



                                           「俳句四季」6月号↑

「俳句四季」6月号・「今月の華」は浅沼璞。
思えば、「俳句空間」(1990年、NO.13)第一回評論賞は受賞作はなかったものの佳作で、事実上の第一回の名誉の高峰は浅沼璞「発句と付句ー芭蕉俳諧を中心にー」であった。選考委員は乾裕幸・富岡幸一郎・夏石番矢の各氏。編集部の選考経過の中では以下のように触れられている。

 富岡氏は「全体に論理展開がやや性急な印象を受けた」とされながらも「『俳句の不安定』はほかならぬ俳句そのものとしてもっと積極的に方法化しなおす必要がある』という指摘を『平句まがいの句』の氾濫との状況論の中で、より突っ込んで具体的に展開されると一層面白くなった」とされている。

あれからもう四半世紀以上が経ち、今、浅沼璞は俳人・レンキスト・批評家としての活躍が著しい
「俳句四季」本号の「最近の名句集を探る44」の座談会にも齋藤愼爾・筑紫磐井・大高翔とともに、藺草慶子『櫻翳』、吉村毬子『手毬唄』、五十嵐義知『七十二候』の三冊についてよく論じている。浅沼璞の師・真鍋呉夫を思わせる句として、「沢音の髪にこもりぬ螢狩」藺草慶子を挙げていた。また、蕪村的なスケールの大きい句として「白南風や富士はためける川の数」吉村毬子、また、スケールの大きさに注目したとして、「島国に六十余州水澄めり」五十嵐義和の句を挙げている。
浅沼璞、1957年東京都生まれ。「俳諧無心」代表。「群青」同人。

最後に、上記とは全く関係ないが、同号に「豈」同人でもある森須蘭が「昭和・平成の俳人 わが道を行く」で取り上げられているので、彼女の句を数句あげておこうか。

    夏草と同じ等高線上の被災地         蘭
    うつ伏せの夢に火事あり鬱のあり
    冬の蝶どちらから動いても恋
    稲妻が後ろに立っている介護
    一日中笑う練習猫じゃらし
    


                 
                  ヤマボウシ↑

2016年5月18日水曜日

芦田麻衣子「言葉とは何か」(「えこし通信」21号)・・・





芦田麻衣子は、連載2回目「言葉とは何か」で、

森羅万象のそよぎをおのが心を通して聴き取り、幾千年の血の歴史の先端で「今」を生かされている私。そんな私の心「魂」と体で構築された『文学』の言葉は、私の生命を生きることと同義である。


と記したのちに、自らの詩集『虎走る』(1977年、昭森社刊)に収められた詩・「虎走る」についての成立の背景を明らかにしている。
じつは、愚生にとって「えこし通信」(発行人・中村文昭)は、初めて見るフリーペーパーである。さらに「詩と評論と文芸作品の詩誌」と通信名の下に書かれている。
今号の小特集は「伊藤比呂美をめぐってー娘VS母/少女VS人間」。対談者は中村文昭とクリハラ冉(なみ)。仔細をつまびらかにできる余裕はないが、中村文昭の名を認めたとたんに(思い出話に横すべりさせていただくと)、昔日の懐かしさを思ったのだ。それは、愚生の働いていた弘栄堂書店では、幾度となく会い、またその頃から、彼の文筆量の多さにも驚いていた。多くの著作があり、ただ、初期以後は愚生は読んでいない。長く、舞踏、それも暗黒舞踏系の批評を書き続けていたと記憶している。中野テレプシコールで偶然に会ったこともある。「江古田文学」などにも関係していたのではなかろうか。
ともあれ、今回興味を持たされたのは、対談の中で、

日本語は、一つは、短歌的発想系の文体、谷崎潤一郎に則して言えば流麗な文章。もう一つは、短歌的発想系の文体に節度を加えて生れた俳句的発想の文体。これは谷崎の言い方を借りれば、志賀直哉に代表されるような簡潔な文章。こういう二つのながれがある。女性で言えば、短歌的発想系の近代的な文章を作ったのは与謝野晶子であり、俳句的発想系の文章で言えば樋口一葉だと言える。(中略)
 短歌的発想系の流れでできあがったのが、感情軸の詩人たちとその文体。俳句的発想系の流れでできあがったのが、実感軸の詩人たちとその文体。その二つを軸においた上で、実感軸を究めていくと思想軸の詩人に至るし、感情軸をきわめていくと暗喩軸の詩人に至る。

と述べて明晰なのだが、愚生は浅学にしてその腑分けの図式化に、確かにそうなのかも知れないと思いつつ、なかなか理解が進まない。嗚呼・・。




2016年5月17日火曜日

車谷長吉「夏来たる馬穴の底の鰻かな」・・・

渋谷にて↑


             愚生の近く、竹田クリニックの待合室↑院長の趣味らしい。

昨年の5月17日、車谷長吉は誤飲による窒息により、急逝した。享年69。
そこで、思い出したのだが、確か昨年ブログ「俳句新空間」で彼への追悼文を筑紫磐井が草していた。筑紫磐井は当時の車谷長吉の句の盗作問題がかまびすしいなかで、新句集の解説を引き受けて書いたのだった。追悼文の中から以下に少し再録引用する。

 車谷氏にとって、小説は他所行かもしれないが、俳句は修行道場であっても悪くはない。  面白いのは車谷氏に「業柱抱き」という詩があり、これをもとに受賞作『塩壺の匙』という小説が書かれていることだ。詩や短歌、俳句は車谷氏の小説に契機を与えているのであり、俳句しか作らない我々業俳の徒には羨ましいものがある。因みに「因業集」には、
    女知り青蘆原に身を沈む
などの句があるから、「青芒女の一生透き通る」のような句を生むイメージが作者の脳裏にどのように湧いたかを推測できる。

愚生が書店勤めをしていた頃にも彼のエピソードはあった。
当時、池袋の西武ブックセンターでは、車谷長吉の姿をみとめると、書店員は柱の影に身を隠したとか。当時の西武百貨店の広告関係の部署にいた彼は、自分の小説が発売されると、きまってその本が平積にされているかどうか、一番よいところに陳列されているか、確かめに来て、そうでなければ、店員にそうするよう必ず文句を言うからであった、という。
あるいは、ステテコ姿で出勤したこともあったという噂もあった。言ってみればそれ位は変わり者だったということだろう。
思えば当時、愚生に、車谷長吉の『赤目四十八瀧心中未遂』を読めと薦めてくれたのは大本義幸であった。
 葉桜や影深くして蔭重く           長吉
 夏来たる馬穴の底の鰻かな

2016年5月16日月曜日

今泉康弘「この国の空を映して薄氷」(「円錐」第69号)・・・



「円錐」第69号の同人作品評・山田耕司「語るを超えて、なお」と澤好摩「語源に遡って捉え直す」を面白く読んだ。この二つの同人作品評で、最初に、それぞれに各人ごとに、別の句を批評することを決めてあったのか、あるいは、偶然にそうなったのか、二者の批評が重なった句は今泉康弘「この国の空を映して薄氷」のみであった。他はすべて各同人それぞれに違った句が取り上げられている。
ただ、共通しているのは今泉康弘の句への叱咤激励である。双方の評を以下に引用したい。
まずは山田耕司評、

 「薄氷」が「頼りなくて壊れやすいもの」という意の記号程度の役割であり、それが「この国」という存在への社会批評として機能させられるべく用いられているのだとすれば、世俗的かつ記号的意味に頼りすぎていて、面白くない。俳句を政治的見解に奉仕させたいのだとしたら、それは、俳句をも政治をも甘く見ていることになると思う。ま、今泉康弘は、本来が芸術至上主義ではあるけれど。
 
次に澤好摩、

若き日の作者の、繊細な叙情がらそこに一本の勁い芯を感じる作品が私は好きだった。掲句にもその頃の感覚がある。しかし、他の句(といっても四句しかないが)は、いつか見た手つきの句ではないか。評論に努力を傾けるのは、それはそれで貴重だが、作品もある程度の量を書いて検証しないと、新たな表現方法は開けてこない(これは、以前にも書いたような気がするが)。なんとも惜しい気がして、繰り返した。

批評としての水準と創作作品としての水準、いずれをも同水準に保とうとする困難を思う。山本健吉のように、批評家としてのみ立つという方向がないではない(山本健吉以後に、俳句界にいまだそうした人は現れていないようだ)。しかし、今泉康弘は、みずからを俳人として呼ばれたいとまだ思っているかもしれない。愚生がいうのも憚られるが、今泉康弘は、するどい批評家というよりは、人の心をうつ文章を草することができる散文家の風貌が意外に似合うのではないかともおもっている。
ともあれ、特別作品の中から一人一句を以下に、

    山茱萸の花より窓の夜明けかな        田中位和子
    夜櫻やキミハ「ウワバミ」ボクハ「ゲコ」     小倉 紫
    降る雪や今日浅草の傘屋風邪         三輪たけし
    山吹やハナグモのゐて風吹きぬ        江川一枝
    後朝の足結(あゆひ)に鈴の朧かな      和久井幹雄




   


   

2016年5月15日日曜日

和田耕三郎「凍月に街は吸はるるごとくなる」(「OPUS」第46号)・・・



「OPUS俳句会」の代表・和田耕三郎には、随分な年月をお会いしていない。若き日、彼は『水瓶座』という句集で青春性に富む句群でデビューを果たした。

   部屋に螢とばしひとりの祭かな         耕三郎

愚生より、かなり若いと思っていたが、この歳になってみると、その若かった彼も還暦を過ぎてしまっているようだ。いまだに律儀に「OPUS」を贈って下さっている。そのお礼もしたためたことがない怠惰を詫びたい心持だ。
以下に各同人の一人一句を、

   涙ふと土の味して冬深し          和田耕三郎
   どくだみのつぼみは白くちいさな火    しなだしん
   コンビニの灯に纏ひつく春しぐれ     池部月女
   春昼やキャップの失せし花鋏       上野みのり
   元日や祖父母祖父子らの靴        数間良寛
   懸想文わろきことほどおもしろく      亀割 潔
   眠る児に宝もの降る春の星        北岡ゆみ
   空の青海の青さよ流し雛          北畑みち代
   若水をこぼすつくばひ竹真青       木村弥生
   一椀を一枚にして海苔を干す       桐原淑式
   七草を探し屋敷をひと巡り         黒澤登与
   いびつなる建物のあり春夕焼       斉藤かずこ
   ハンガーの鳥の巣濡るるクリスマス   坂本 登
   春浅し棚に手擦れの福音書        たかはしさよこ
   大玻璃のひとりに余る冬日差       辻 多恵
   春大根花は紅色十文字          日置久子
   魚屋の魚もあるじも寒に入る       宮崎静枝
   石段の薄きを辿る梅の花         宮崎夕美
   井戸のみの美術館跡初しぐれ      和田ゑみこ
   八十八寺の写真を開く空海忌      渡部陽子
  


   

2016年5月14日土曜日

坪内稔典「草の芽も木の芽も君も僕も今」(「子規新報 第2巻55号」)・・・



「子規新報 第2巻55号」の特集は「坪内稔典の俳句」、「坪内稔典『ヤツとオレ』30句」の抄出は小西昭夫。その句を俎上に、ミニエッセイ・鑑賞文を多くの方が書いておられる。
そのなかでは、特に池田澄子のものに魅かれた。小文の最後に選んで記した句が池田澄子にとっては、『ヤツとオレ』の中の、とりわけの共鳴句だったことが分かる。なにより、一見軽そうにみえ、また、日常的な感懐に、共感を収れんさせてみせる坪内俳句のエスキスをよくとらえていよう。
それには、以下のように書かれている。

草の芽も木の芽も君も僕も今

「今」という言葉で完成した句。「今」という認識を実感。今とは、今を生きているということだ。今を共有して生き合っているということだ。呟いているのは「僕」だけれど、その認識は間違いなく「君」に伝わっていて、「君」は同じ思いでいる筈。「草の芽も木の芽も」今、生きている。言わないけれど草の芽も木の芽もそれを体感している筈。一番下に僕と記されて、この四者に順位はない。
 本当に人間の総てが、この思いを実感として持っていれば、永遠に「東風吹いて日本は戦争放棄国」である筈。なんの理由も理屈も要らない。戦争反対なんて騒ぐ必要もない。

「筈」だらけの、今は、どうやら騒がざるをえないのだ・・・。世の中、面白くない筈だ。
以下、小西昭夫の抄出句の中から、

   白バラの白からやってきたか、君       稔典
   尼さんが五人一本ずつバナナ
   原子炉を抱いて菜の花半島よ
   十二月八日あんぱん半分こ
   七十歳と十歳といて葦芽ぐむ
   ヤツとオレ日本菫学会員








2016年5月13日金曜日

茨木和生「蛇穴(さらぎ)とは字の名畦の草青む」(『熊樫』)・・・



茨木和生第13句集『熊樫』(東京四季出版)の「熊樫」について、植物学上の「クマガシ」は地元の平群には自生していないのだという。古事記歌謡に見える「葉廣熊白梼(はびろくまかし)」は、「平群の山に多く自生している『アラカシ』『シラカシ』『アカガシ』のいずれだと思われる。しかし、平群の山を歩いて出合う樫の木を私は熊樫だと思って句に詠んでいる。平群の山を歩く時、私は熊樫の小枝を折って、身を祓い、道を祓って山の中に入ってゆくことにしている。熊樫の持つ霊力を信じているからである」(あとがき)という。
茨木和生をが冒頭に引用した「熊樫」の出てくる古事記歌謡は、

   命の 全(また)けむ人は 
   疊薦(たたみこも) 平群(へぐり)の山の 
   熊白梼(くまかし)が葉を
   髻華(うず)に挿せ その子

だが、その直前の歌謡は、かの有名な、

  倭(やまと)は 国のまほろば
  たたなづく 青垣
  山隠(やまごも)れる 倭し 美(うるは)

何れの歌謡も、国思歌くにしのびうた)である。ちなみに(畳薦)は平群(へぐり)の枕詞とは石川淳釈にある。ならば、『熊樫』一巻もまた、めでたく国思の句にちがいない。
いくつかの句を以下に、

  年よりも若いと言はれ初麗      和生
  一島をあげて万歳もてなせり
  降り出して空がにぎやか春の雪
  頂に行かずに春の山歩く
  あの世には死ぬ人をらず万愚節
  白靴の泥を落して汚しけり
  暮石忌の暮石詠みたる山歩く
  沖に灯の点く島あらず秋の暮
  列車来る時間に人来冬の暮
  


2016年5月12日木曜日

髙柳克弘「日盛や動物園は死を見せず」(『寒林』)・・・



句集名『寒林』(ふらんす堂)は、以下の句からであろう。

   標無く標求めず寒林行く          克弘

さらに「あとがき」に於いて、以下のように述志している。

 自分は、「ものを書く」ということでしか生きる実感を得られない人間だと自覚した。そして、社会の通念や価値観とは隔たった生き方に、俳人としての道を見出だそうと決意した。特に後半の句には厭世の気分が濃い。それら一句一句を寒林の一樹になぞらえて、句集名とした。

こうした言挙げを読むと、寒林は季語という役目より、むしろ別の何かをまとっていると読める。季語としてなら、例句は意外に近い時代に限定される、という感じがする(いわば新しいのではなかろうか)。髙柳克弘のかつての師・藤田湘子は「死ぬるまで寒林に待つ馬蹄音」と詠んだ。
ものの本によると、寒林には、屍を葬る所、あるいは、屍を棄てて禽獣の食うに任せたところの意もあるようである。単に季語的な厳冬期の枯木立ではない。自らが苦しむのはこの肉体のためだと自らの死骸に鞭打った伝説から「寒林に骸を打つ」ともいうらしい。
『季語別鷹俳句集』には、

  寒林のどの木も後姿なし      大森澄夫
  はればれと寒林ありし入りがたし 野本 京
  寒林の鳥声に胸射られたり    高野途上

などの佳句を含んで例句も多い。
髙柳克弘には前句集でも「ことごとく未踏なりけり冬の星」の句があるように、自らの生き方を、見定めとようとする意志の句が、ときおり貌をのぞかせる。
いくつかの句を以下に・・。

  眠られぬこどもの数よ春の星      克弘
  名乗らぬもの扉を叩く炎暑かな
  涼しさの遊覧船は沖知らず
  日盛や動物園は死をみせず
  一分と一億年と海の雪
  撃たれたる鳥の恍惚山桜





 

2016年5月11日水曜日

上田信治「沈丁花中央線が見えるのか」(「里」154号)・・・



「里」の表3には、毎号「成分表」、上田信治のエッセイといおうか、コラムが掲載されている。今号で118回というから、たぶん、連載はもう10年になろうとしているのだ。
表3という裏表紙の位置にあるので、自然に目がいく。雑誌は開かなくても目に入り、つい読んでしまう。毎号いろいろ話の枕を考えて、第三コーナーを回るあたりでは、ときに付会と思えても、とにかく俳句の話題にもってくるのだから、その凄腕に敬意を表していい。
今号も、以下の件はなるほどと、半分これは彼の皮肉なもの言いであろうが、納得がいく。

  個々の顔の美しさが抜け落ちたような、集合的イデアとしての俳句美を求めた作家に森澄雄がいる。彼の代表句のいくつかは、固有性を脱落させて「俳句らしさ」だけを残したような、極端なところへ達している。その姿勢を、伝統に着くと言っても俳句性の追求と言ってもいいのだけれど、この世には平均顔よりも、もっとずっと美しい顔があることは、どう考えればいいのか。

            さるすべり美しかりし与謝郡      森 澄雄

いわゆる「俳句らしさ」をカッコに括ってみせた上田信治も、もとより「俳句らしさ」などというものが自明のものではない、ということをとっくに承知している。
同号よりいくつか、愚生がお会いしたことがある人の句を以下に・・・

    手を洗ふことも勤労感謝の日        仲 寒蟬
    影になり障子の影のなかに入る      河西志帆
    よく揚がる凧なりよく笑ふ母なり      小豆澤裕子
    雉子酒を眞似攝州の大御空        島田牙城
    解約の書類複雑もがり笛          月野ぽぽな
    立春の座卓に日本国憲法         媚 庵
    羽ばたきを撮るその奥を春の川      佐藤文香



    
   

2016年5月10日火曜日

花谷清「春昼へ引きし扉を押して出る」(「藍」499号)・・・



「藍」499号には、冒頭、「創刊四十三周年を迎えて」と題して、花谷清は以下のように言挙げしている。

 日野草城は「俳句は東洋の真珠である」との名言を残してします。自らが生かされている瞬間を、真珠のように輝く作品として結晶できるのは、俳句の素晴らしい特徴です。作句の継続と発表が「生きるよろこび」へ繋がれば、与えられた日々を希望と充実をもって営めるのではないでしょうか。藍俳句会が、ここに集うひとにとって、俳句を学ぶよき場となるのを願っています。

つい先年、母・花谷和子から「藍」を継承し、その発展に心を砕いている様子がよく伺える。和田悟朗の晩年に私淑とも思われる敬慕をもっていた花谷清である。その昔、もう半世紀ほどににもなるのだろうか。今は手元ですぐには探せないが、坪内稔典らと共に「日時計」に居たのではなかろうか(坪内稔典は元はといえば草城直系・伊丹三樹彦の「青玄」にいたのであるから、あながち無縁ではない)。その青年も、いま日野草城の系譜をひく「藍」に身魂を注いでいるのだから、感慨も湧くというものである。とはいえ、辛口で、あえて申せば、愛息・清は、美しき母、名誉主宰・和子の深境に、いまだ届かずというところか。年齢と経験の厚みの差といえばそうかも知れない。今号も花谷和子作品は冴えている。

   春宵は千金あした考えよう        和子
   青芝やいつしか昭和の子供老い
    〈二千六百年記念橿原神宮学徒勤労奉仕〉
   共にせし学徒奉仕の森繁り

「藍」は昭和48年7月花谷和子が創刊。師系は日野草城。「個々の作風を尊重、生きる歓びのための俳句をめざす」という。
第36回「藍」賞は、加藤類子。

   砂動く地下湧水の噴かんとし      類子
   高原を倦みし少女に竹煮草
   砥石干す木枯強き日の真昼    
   



2016年5月9日月曜日

小笠原京「破れ蓮を見に来て寂しがつており」(「翔臨」第85号)・・・



「翔臨」には竹中宏「且翔且臨」という、当該号の句評が見開きページに載っているのだが、それがおよそ一人の同人作品に限られていて、一人の作家像が髣髴と思い浮かぶ。しかも竹中宏の俳句観が色濃く投影されているので、なかなか手ごわいことでもある。例えば、以下のように記される(愚生には、「翔臨」全体が良い意味で一すじ縄ではいかない、しかも多士済済、手ごわいという印象をもっているのだが・・)。

 極言すれば「俳句って、なに?」という問いそのものが、近現代俳句史の肩をおしやる最大の原動力だったのであり、、そこに、近代以前の俳諧の知らなかった「不安と恍惚」もまたやどる。不確定なくらがりにむけてひらいた空間を手さぐりするがごとき、俳句形式の個別的で具体的なかかわりである作句行為の蓄積の結果として、そして、そんな実践を経てのみ、すぐれた俳人は、しだいに、かれらなりに、俳句なるものについての確たる認識にちかづいてゆくのである。そうした軌跡が、俳句史の実質部分を形成しているのだといえる。しかし、そうだとすると、すであきらかなように、「俳句って、なに?」という問いは、それじたいが、近代俳句史をつらぬく基本モティーフであるだけでなく、一己の俳人を挑発する強迫観念(オプセッション)、むしろ一己の俳人を生成させる同行者でもあった。この状況は、今日も、なおかわらない。(小笠原さんも、「俳句って、なに?」という同じ問いを発することによって、おなじひとつの俳句の時間の流れのなかを歩んでいることになる。)
(中略)
 じつは「破れ蓮を見て寂しがる」という、ほとんど同義反復にちかいセンテンスを、作品として読めるものに転化しているのは、それらの措辞の屈折だけでない。おそらく俳句形式の問題がかかわってくるはずだ。「滝の上に水があらわれて落ちた」といってしまえば、まるでたわいない叙述が、「滝の上に水現れて落ちにけり」という形態をあたえられることによって、みごとな一句になることの秘密と、どこかでクロスするのではないか。そういうばあいの俳句って、いったい、なにか。

話は一転してしまうが、「翔臨」には前述された小笠原京と同地で小笠原信という俳人がいる。親子?でもあるかも知れない。愚生は、小笠原信の作品になぜか魅かれる。題がまずなかなか・・
「不戦序曲」だ。いくつかを以下に、

  野馬追ひや追ひ続けねば馬亡ぶ        信
  戦争をする国なれば野島流
  千羽鶴目なし口なし原爆忌
  遺句集を閉ぢて開いて去年今年
  尻下に微小噴水去年今年

今号にはほかに久しぶりに上野遊馬の玉文、『島一木句集』評にも接することができた。健在、有り難し。



2016年5月8日日曜日

中村裕「われら詠む十七文字の反戦歌」(東京新聞「平和の俳句」)・・



5月8日(日)付け東京新聞「平和の俳句」は中村裕。あの、もしかしたら、三橋敏雄の弟子を称していた中村裕か?・・と思った。しかし、川崎市になっているから、違うかもしれない(以前に愚生が知っている住所と違う)。いや、彼はよく引越していたから、そうかも知れない。年齢も少しちがうようだが、・・・同姓同名かも、などと思ったりした。とはいえ、愚生の知っている中村裕だとしたら、新興俳句系最後の係累として申し分のない句であろう。それがいい、と思い定めた。金子兜太、いとうせいこうは以下のように評している。
 
われら詠む十七文字の反戦歌       中村 裕(ゆたか)(62) 川崎市川崎区 

 〈金子兜太〉 男心に男が惚(ほ)れるとは、こういう爽やかな俳句に出会ったとき。〈いとうせいこう〉防人(さきもり)の歌があったように、われらは戦いを平和を詠む。いにしえより。




さて、当日の「東京俳壇」小澤實選↑には、「豈」同人にして、歌人の、

    珈琲冷めて越前掘の日永かな      藤原龍一郎(東京都江東区)

があった。 こちらはいささか懐かし気な光景・・・。