2016年12月24日土曜日

佐藤榮市「いま冷えて明日も冷えて鼻である」(「夢座」174号)・・・



「夢座」174号(発行人・渡邉樹音)は、かつて常連の執筆者であった齋藤愼爾「天皇陛下の闘い」(時への眼差しⅪ)と江里昭彦「俳人の『生きるじたばた』二〇一六年版」(昭彦の直球・曲球・危険球㊺)の復活でぐっと厚みが増し、読み応えが増した。とりわけ、齋藤愼爾は、

 「いま、もっともラジカルなのは天皇じゃないかな」、さきほど別れたばかりのTは大量にあおっていた酒に寸分も酩酊することなく口走った。私は頷いた。三・一一以後、同じようなことを考えていたからだ。

と述べている。天皇制の制約のぎりぎりのなかでの今生陛下の志について言っているのだ。現在の思考のラジカルさでいえば、辺見庸がすぐにも思い浮かべられるが、その存在自体から発せられる言葉の影響力を思えば、比べようがない。そして、齋藤愼爾は添田馨の論考に触れながら、以下のように結んでいる。

添田氏は天皇が無法政権に対し、自ら立ちあがった姿を透視する。訥々と「お言葉」を読み上げるその表情は、まことに穏やかながら、まさに闘う者の姿。象徴天皇制の堅持、九条をも含めた現行憲法の堅持ー自らの主張を、生前退位の問題へと変形して、広く国民に問いかける。実にラジカルな天皇の、現在取りうるぎりぎりの非政治的=政治行動だった。と結論する。

愚生もおよばずながら同意しようと思う。一方、江里昭彦は、高野ムツオ句集『片翅』の句「煩悩具足五欲も完備雪の底」に触れて、

 雪の底に目を凝らし、東北人の再生の可能性を見る。煩悩も五欲も、きっとそのエネルギーになるとみなすーかかる肺活量の大きな詩人を得たことを、私は現代俳句のために喜びたい。
 
と言挙げしている。ともあれ、以下に今号の一人一句を挙げておきたい。

   夏の海波いくつまで数へたか       太田 薫
   初鶏や若冲トサカ動ゐてる        城名景琳
   ねずみもち煙り静脈さざなみす      渡邉樹音
   胸の木枯らし斟酌たもれ          鴨川らーら
   零落をともなう蝉に釈迦坐像        照井三余
   走り蕎麦蕎麦猪口に汁ごく少量      金田 冽
   めきめきと老いてゆくなり夏の雲     佐藤榮市
   島にゐて島を見てゐる秋暑かな     鹿又英一
   ポピュリズムネットの火事の此処彼処  江良純雄 
   八百屋おや花屋となりぬ菊の花      銀 畑二



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