2017年3月18日土曜日

高野ムツオ「煩悩具足五欲も完備雪の底」(「駱駝の瘤」通信13より)・・



「『駱駝の瘤』通信13、2017年春 3.11 6周年号」(ゆきのした文庫)。同人誌には珍しい大型A4判の雑誌である。その冒頭「《扉の言葉》 フクシマ核災事件」で福島市在住の磐瀬清雄は、

 〈3.11〉から八ヶ月が過ぎた二〇一一年一一月一三日、水俣・白河展の講演会のことである。(中略)
 緒方氏は語った「この原発事故は『事故』でいいんでしょうか?・・・そんなら水俣病は事故か?事件か? 事故と言えば、そこに不可抗力の響きがある。責任が問われなくなる。しかし、水俣病とは、間違いなく工場廃液の垂れ流し不法投棄事件です。海の異変と病気はその結果です・・・」。(中略)
 私は東電と国家の責任を追及する際には、福島原発事故を「フクシマ核災事件」と呼ぶことにする。事件は六年目に入る。避難指示は次々と解除され、何かあるたびに復興復旧が様ざまに演出されるが、事件は深く広く進行中である。

と記している。この磐瀬清雄は別稿でも評論「服部躬治について」を書いている。躬治(もとはる)は明治の歌人にして国文学者。不明にして愚生は初めて知った。
じつは、愚生が紹介したかったのは(俳人つながりで)、同誌掲載の五十嵐進「評論 農を続けながら2017冬」である。それは、江里昭彦が「夢座」174号に書いた「俳人の『生きるじたばた』二〇一六年版」の高野ムツオ『片翅』評に関して、江里昭彦の述べた部分に彼が批評を加えたものである。誤解なきよう全文引用したいところだが、愚生のブログはひと息しか続かない(長くは書けない)。以下に結論のみを抄録する(興味がある向きは誌の購読を申し込まれよ)。

 江里は上の十三句について「蛇足を承知で」二句について評釈している。一句は「蛙声もて楚歌となすべし原子炉よ」。「過疎地」で「抗議の人波で包囲することが望めない」「せめて蛙よ、おまえらの騒がしい声で原子炉を包囲しておくれ」「批判精神と諧謔を俳句形式のうちにうまく畳みこんだ秀作である」とは絶賛であるが、「原子炉よ」の「よ」は呼びかけではないか。原子炉は項羽であり、蛙の声を楚歌とみて、もう味方も敵にまわり、自分は孤立無援の状況なのだ、悟れ、というのがことばに即した読みなのではないか。(中略)「包囲しておくれ」ではないのだ。「批判精神」は読みとれるが、作者はどこにいるのか。静観して句をなす作者がいる。「東北の現状に対峙」とはこういうことか。はたして俳句とはこういうものなのか。もう一句は「煩悩具足五欲も完備雪の底」。「思わず唸った」「煩悩といい五欲といい、腥く、浅ましく、身勝手で、執拗なものだ。でも高野はおおらかに肯定する」「再生のエネルギーとみなす」「かかる肺活量の大きな詩人」と、これも絶賛する。「東北の現状」を核発電所爆発、終わりなき放射能汚染にみれば、これをもたらしたのは「煩悩具足五欲を完備」した人々であり、その価値観なのだ。視野を広げれば、ここに帰結する戦後社会を推し進めたのがこれだ、といえよう。ここでこれを「おおらかに肯定」する姿勢は、必ずや二度三度同じ轍を踏むであろう。原発再稼働はもちろん人を人とも思わない労働社会、沖縄の現状、軍事問題、核武装・・・、根は同じであろう。「現実への感度」が依然として問われている。「大御所様」。

と指弾している(「」内の言葉は江里昭彦の文中のもの)。


            撮影・葛城綾呂 シロバナタンポポ↑

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