2017年4月30日日曜日

井口加奈「三寒四温除霊されちゃったパン」(「円錐」第73号)・・



「円錐」第73号は、第一回円錐新鋭作品賞の発表である。応募は一篇35句、およそ半年の募集期間に47編の応募があったという。さほど宣伝もせずの応募数だから意外に多い、という感触だろう(若い人たちにはネット上が効を奏するのかも)。選考委員は澤好摩・髙柳蕗子・山田耕司の三名。作品選考座談会も掲載されている。結果的には、圧倒的な一位推薦者がなく、一人全作の掲載ではなく、応募作の中から20句ずつの掲載、3名ということになっている。花車賞(澤好摩推薦)が谷崎佳奈美(49歳)「目線は高く」、白桃賞(山田耕司推薦)が佐藤文香(31歳)「総国(ふさのくに)」、うずまき賞(髙柳蕗子推薦)が井口可奈(28歳)「プレイステーションの起動音」であった。賞の命名の由来は、「豈」の攝津幸彦記念賞と同じく、故人の同人に因む長岡裕一郎由来の「花車賞」、糸大八由来の「白桃賞」、髙柳蕗子のみ、うずまき魂を宿すという意味で「うずまき賞」という。
 愚生の印象では、佐藤文香はすでに句集もいくつか持ち、立派に俳人として佇っているのだから(すくなくとも新鋭ではない)、今更、賞に応募するなどいうことは止めて、俳人として自身の歩みをわき目もふらず邁進していってほしい、と思う。かつて、高柳重信は津沢マサ子に、「一人前の俳人になるつもりなら投稿などはするな」と言われたと聞いたことがある。津沢マサ子は、以来、句の投稿をすることを止めたとも聞いた。以下に各賞の一人一句を挙げる。
 
   雲梯(くもばしご)山に桜の多きかな   谷崎佳奈美
   あさがほのたゝみ皺はも潦        佐藤文香
   頭痛ばかりの街です春日万灯籠      井口可奈

連載稿では、今泉康弘「諧謔と無ー永田耕衣における禅 第二回」があるが、なかに気にかかったことを一つ書く。それは飯島晴子「悪茄子(わるなすび)爛々とわが翁かな」の句について、

 晴子は「悪茄子」という自ら造った語に、耕衣その人を思い浮かべた。

という部分である。愚生の思い違いかも知れないが、「悪茄子(ワルナスビ)」(別名・鬼茄子)は、植物名であり、棘がやたらとあって、痛くて触われない、秋になると丸い実がなるが毒。愚生の通勤途中の道端にもたくさん生えている。これから、茄子によく似た花が咲く。強いていえば植物季語ではなかろうか。すくなくとも造語ではないように思う(もっとも、晴子の原文にあたっていないので何とも言えないが・・)。



2017年4月29日土曜日

酒巻英一郎「裏花や/わたくしあめの/外に濡れて」(「LOTUS」第35号)・・



 「LOTUS」第35号は特集「酒巻英一郎『阿多(多に口篇あり)喇句祠亞(アタラクシァ)」評。同人諸氏、同人外から執筆者をそろえ、遺句集即全句集を念願する酒巻英一郎三行表記50句の文字通り渾身の特集である。本誌以前に、そして以後もおそらく酒巻英一郎に関するかくも濃密な特集はないだろう、と思わせる内容である。50句一挙掲載、しかも各句に酒巻自身による「手引き」別添えで「季語」「motif」「語釈」付き。冒頭近くに九堂夜想による酒巻英一郎インタビュー「私と俳句そして多行形式」。さすがにインタビューは見事に韜晦の海に沈められてしまったが(もとより承知の聞き役だったろう)。
 論の中では、十分と思われる量を書いた田沼泰彦「『し』との別れー酒巻英一郎論序説」が酒巻英一郎の師・大岡頌司の句の在り様を描き、その延長線上に酒巻一郎とその作品を評してみせた説得力に指を屈する。論では冒頭に、

   ゆくからに
   角ぐむ蘆の
   言語像            英一郎

をあげ、最後に、

 つまり酒巻の「言語像」にとって、三行形式とは気がつけばそこに在る「おのごろ島」のような「肉体」であることがわかる。実はこの「形式=肉体」とは、俳句における唯一の「ロゴス=真理」に他ならない。そしてそれだけが、俳句形式におけるロゴスとして、常に言葉よりも先んじる存在なのだ。「私」という観念化し得ない気紛れな自我をもって、「ロゴス=真理」に対する「言語像」の優位性を担保しようとした酒巻が、「私」のアリバイ(=不在証明)を成就することで、形式という「ロゴス=真理」の、言葉に対する優位性を逆説的に現出させたことは、俳句における皮肉でも偶然でもないだろう。それは、酒巻が確信していようがいまいが、『阿多(口篇あり)喇句祠亞』の特筆に値する可能性を示している。

と結論している。他にもこの「言語像」の句に触れたものもあるが、さすがに念入りに大岡頌司をたどった高原耕治「言語像のエントロピー」は、大岡頌司句集『花見干潟』の跋に大岡がしるした、

 言語像と共に育つことを、いつからか望まざるを得なくなつた、彼の幼年が、三日を三年と、その遅れがちな言葉の意味に、他郷性を発見する消息については、まだまだ昧いやうである。

を指摘し、「酒巻の使用した言葉『言語像』のそれと同じ意味合いがあろう」と述べている。
話は少しもどるが、先の酒巻インタビューで「高原耕治さんが第二次「未定」を多行形式の専門誌として再出発させ」、さらに「その『未定』とうとう解散ということですが、はたして修羅場があったかどうか」と述べているので、(ついに同時代、唯一の「豈」の兄貴格だった「未定」が終わったとなれば、内実は別にして、「豈」の一人旅という淋しさを思ったのだった・・・)が、とはいえ、表健太郎が「滅亡のときを求めてー酒巻英一郎俳句論への試みー」で以下に述べたあたりは、ともに滅びることも辞さないという浪漫派の美学が伺えようというもの。

 三行形式はその構造が抱える悲劇の宿命により、言語を道連れにして、形式自らが己れの手で己の棺に釘を打たなければならないのだ。そして恐らく、いや確実に、三行形式は酒巻氏を最後の実践者として見事に滅びることになるだろう。仮に意思を継ぐ者が現れたとしても、大岡頌司と酒巻氏の見出したベクトル以外に、三行形式が発展できる余地は残されていない。

他は執筆者の名のみを挙げ、句をいくつか挙げておこう。
広瀬大志・今泉康弘・佐藤榮市・藤川夕海・丑丸敬史・古田嘉彦・松本光雄・鈴木純一・佐々木貴子。

   詳らかに
   具へて
   春の曙は        英一郎

   喚び入れて
   廻す
   山猫廻しかな

   艮の
   雨垂落ちの 
   虎が石




2017年4月28日金曜日

鴇田智哉「人参を並べておけば分かるなり」(「MANO」第二十号より)・・



「MANO」第二十号(編集発行人・樋口由紀子)が、「川柳カード」に続いて、二十年間、二十号で終刊する。最後の同人は加藤久子、小池正博、佐藤みさ子、樋口由紀子。加藤と佐藤は東北人、小池と樋口は関西人。創刊号の同人には先年亡くなった石部明、他には倉本朝世が居た。MANOは終刊した。が、それでもそれぞれの歩みは始まるのだ。佐藤みさ子は言う。

 これから残り少ない時間を私はどうすればいいのだろう。いつ起こるかわからない天災。終わらない戦火。テロや難民。原発という負の遺産などを考えると、私の趣味など何になるのだろう。私個人の未来には、日々新たな老いと死があるのだが、それを楽しむ方法が川柳にはあるのかもしれない。

その佐藤みさ子論を小池正博が「佐藤みさ子ー虚無感とのたたかい」と題して書いている。一方、樋口由紀子は「言葉そのものへの関心ー鴇田智哉句集『凧と円柱』を読む」で、攝津幸彦と鴇田智哉に触れて以下のように記している。

 攝津幸彦は突然現れた怪人であった。私の句集『ゆうるりと』と第二句集『溶顔』はまるで別物で、同一川柳人のものとは思えないとよく言われたが、それは攝津幸彦の俳句に出合ったためである。川柳という概念、物を書く方法、言葉に対する意識など今まで漠然と持っていたものすべてが吹っ飛んでしまい、世界の見え方ががらりと変わってしまった。それと同様のものが鴇田智哉の俳句にあった。攝津幸彦レーンの俳人はもう出て来ないと思っていたので驚きであった。鴇田智哉は二人目の怪人になった。

たしかに樋口由紀子のいうように、当時、攝津幸彦の句はあきらかに新しかった。鴇田智哉も現在の世界の在り様をこの上なく体現している新しさがある(その根拠を明らかに言いとめられないのは無念だが、その感触はある)。鴇田智哉と違うのは、生前の攝津幸彦はほとんど無名だったこと(ごく一部ではもっとも有名だったが・・)。いつか宇多喜代子が「攝津が生きている時に、もっと、みんなセッツ,セッツと言ってあげれば良かったのに・・」と漏らしたことがある。
ともあれ、以下に終刊号から一人一句を挙げておこう。

  足洗う住所氏名が消えるまで      佐藤みさ子
  短いなら短いように舟に積む      樋口由紀子
  すったもんだのあげくに顔を上げる    加藤久子
  縛られた足は見せない共犯者       小池正博




2017年4月27日木曜日

漠夢道「概念の夜霧に濡れているばかり」(『棒になる話』)・・



 獏夢道『棒になる話』(七月堂)。帯の背に「具象から抽象へ」とある。この惹句には見覚えがあると思ったら、加藤郁乎の言った「非具象俳句」なるものに思い至った。
著者「あとがき」には、こうあった。

 ある日から、できるかぎりミステリアスな作品を作ってみたい、そんな思いだけはつねにわたくしの心を占めていたように思います。同時に書くという行為が果たしていかなる充足をわたくしにもたらすものであるか、否。このふたつの思いのなかであるいは揺れつづけてきたのかもしれない。『くちびる』を出版してから十数年という歳月が流れ去っている。

ブログタイトルに掲げた句には、すぐにも、渡辺白泉「街燈は夜霧にぬれるためにある」を思うだろう。実はこうした印象は他の句においても意外と多くあった。それはたぶん漠夢道が俳句を書くことを思考するという行為が招いた結果、こうした傾向を有する俳人の句に影響をうけているのかもかもしれない。一例をあげると、

  草二本おそらく左側である     夢道
  わたくしに肖ている男草二本

の句には、これも有名な富沢赤黄男「草二本だけ生えてゐる 時間」を思い起こさざるをえない。いずれも先行する句があって、その句を下敷きにしたパロディ―とも考えられなくもないが、趣向がかなり違う印象である。
ともあれ、いくつかの句を挙げておこう。

  とある日の桃の木倒る倒れたり
  鳥墜ちる午前二時から午前二時
  影になるためにきてみた夏野原
  カンナとは知らずにカンナ見る男 
  遥かなり山河を仰ぎ仰ぎみる

獏夢道(ばく・むどう)1946年、北海道生まれ。


           撮影・葛城綾呂↑

2017年4月26日水曜日

三橋鷹女「金銀の花ちる水を飼ひ殺し」(『鷹女への旅』より)・・



三宅やよい『鷹女への旅』(創風社出版)「あとがき」によると、

 「鷹女への旅」は「船団」64号(二〇〇五年)から79号(二〇〇八年)まで十五回にわたって掲載した内容をリライトしたものです。

という。三橋鷹女評伝としては欠かせない、出色の一本というところか。資料の渉猟、遺族への取材、インタビューも丁寧に行われている。とりわけ、後半の鷹女句集『羊歯地獄』『橅』の周辺と句の評価をめぐる筆致は、鷹女をよくとらえて放さない。最後に三宅やよいが「私の『鷹女への旅』もこれで終了する」と締めくくったあたりは、やよい自身が鷹女の俳句形式に対した飽くなき想いを、なだめきれないかもしれないと感じたのではなかろうかと、愚生に錯覚させもする。
 『羊歯地獄』の句「饐えた臓腑のあかい帆を張り 凩海峡」については以下のように記している。

 描き出された「海峡」の句を読み返すと一句、一句がシュールレアリズムの映画のショットのように感じられる。それは今まで誰も描くことのできなかった光景であるとともに覗き見たとたん目をそらしたくなるグロテスクなものである。今まで誰がこんな光景を俳句で描こうとしただろう。幻想に力を与えているのは彼女自身の孤独と不安の切実さであろう。

敢えて申せば。それは鷹女にとっては幻想ではなく、孤独と不安の文字通り、現実だったのだと思う。そして、愚生が思い出す別のもう一本の書は、鷹女の句について鑑賞した秦夕美『夢の柩 わたしの鷹女』(邑書林)である。その中に津沢マサ子が書いた「鷹女のこと」で、(三鷹駅からのバス路線図に加えてみ道順が記された昭和37年4月25日消印葉書)を津沢マサ子宅で見せてもらったことがある。そして、津沢マサ子は、その葉書を手に二歳半の男の子を背に括りつけ、鷹女に会うために句会に行った。その男の子は鷹女に何度かあやしてもらったという。髙柳重信に会ったのもその時が初めてだったらしい。
一句を書くことは 一片の鱗の剥脱である」鷹女。
ともあれ、同書より、いくつか鷹女の句を、

   瞳に灼けて鶴は白衣の兵となる      鷹女
   白露や死んでゆく日も帯締めて
   墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み
   氷上に卵逆立つ うみたて卵
   寒満月こぶしをひらく赤ん坊
   夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり

三宅やよい、1955年、兵庫県生まれ。



2017年4月24日月曜日

中村裕「地球にそら砂の軋みをからだぢゆう」(『石』)・・・・・


                                                         子息・中村虎州巳(こずみ)↑

昨日、4月23日(日)は、アルカディア市ヶ谷に於て「中村裕さんを送る会」が行われた。去る2月19日に膀胱がんのため、68歳で急逝。発起人は池田澄子、遠山陽子、永安浩美、世話人は寺澤一雄、村井康司、佐藤文香。案内に記された長男・中村虎州巳の「ごあいさつ」によると、

 父、中村裕は二年前に膀胱摘出手術を受けて以来、ガン治療に専念する毎日を送っておりました。昨年暮れから容態が急激に悪化し、残念ながら二月十句十九日に還らぬ人となりました。家族に見守られながrの安らかな死でした。これまでの父の俳句・文筆活動を応援してくださりありがとうございました。

とあった。折笠美秋と同じ北里病院に入院していたらしい。闘病中には遠山陽子・佐藤文香と三人句会もやっていたという。彼が亡くなる直前のある日、遠山陽子・佐藤文香が見舞ったのが最後になった、とのことだった。
 モニターには、彼が師事した三橋敏雄をめぐる会合のスナップ写真が流されていたが、山本紫黄、松崎豊、加藤郁乎、髙屋窓秋など鬼籍に入った方々も多くいた。愚生が中村裕と会ったのもたぶんその中の何かの会だったと思う。
 フリーランスのライターで編集者だった彼が、三橋敏雄に出合って(たぶん、三橋敏雄連載の「昭和俳句栞草」〈「太陽」〉)、俳句を書き始め、住居まで三橋敏雄の傍に転居したのは、髙柳重信宅の近所に引っ越して毎日のように訪ねた三橋敏雄の例にならったのかもしれない。
 愚生と同年齢だから、複雑な気持ちだ。彼が世田谷区のシルバー人材センターに登録して、俳句のカルチャー講座の講師をやると決まって、愚生にも、府中市のシルバー人材センターへの登録を勧めてくれたのは彼だった(もっとも、愚生は俳句講師ではなく、府中市グリーン・プラザ勤務だが)。その代わりというわけではないが、愚生がやっていたしんぶん「赤旗」2年間の俳句時評では、後を託すべく彼を推薦した。彼が最初の手術で入院したことを知ったのは、たまたま会った、その担当記者からだった。65歳を過ぎて、優雅に年金暮しというわけにもいかず、お互いの生活の心配をしていたようなものだ。
とはいえ、思い出すのは、『俳人合点帖』の石田波郷の章で、昭和18年の波郷のマニュフェストとでもいうべき「風切宣言」について、中村裕が

 (前略)「一、俳句の韻文精神徹底、一豊饒なる自然と剛直なる生活表現、一、時局社会が俳句に要求するものを高々と表出する事」。
 つまり「韻文精神」と時局社会が俳句に要求するものを高々と表出すること」は、同一平面上でしっかりつながっていたのである。波郷のいう韻文精神とそれを具体化するための切字の重視は、戦時体制下の国家社会の要請に沿うものであった。(中略)
波郷のとらえた境涯や「人間全体」は、戦争を内に含むものだったことになる。それが境涯や「人間全体」を抹殺するにもかかわらずである。石田波郷は、俳句という伝統文芸の危うさを、身をもって示したといえるのではないだろうか。

と述べたことである。只今現在、日米同盟下の半島をめぐる情勢に、いかなる戦争にも反対するという機運のかけらもないのは、平和ボケのせいか、まさか戦争にはなるまいという楽観からか。ふと、戦前の新興俳句弾圧直前もやはり、そうだったのではないかという思いがよぎるのである。 
ともあれ冥福を祈る。

中村裕(なかむら・ゆたか)1948年~2017年、北海道美唄生まれ。著書に『やつあたり俳句入門』(文春新書)、『疾走する俳句ー白泉句集を読む』『俳人合点帖』(ともに春陽堂)、共著に『ビジュアル・コミニュケーション』など多数。句集『石』(鞦韆堂)。




2017年4月22日土曜日

小町圭「金色に枯れたものから箱にしまおう」(『小町圭選集』)・・



『小町圭選集』(ふらんす堂・本体1800円)、仕様は現代俳句文庫と同様だが(本集の装丁は和兎)、エッセイ・論・主要句を収載した個人選集として、その作家の大方を知るには、格好のテキストになるだろう。
 解説の中で、「面白い俳句という地平を開いた」という前田吐実男の評について、村井和一は、

 小町圭の方法的実験を不毛とする向きもあるだろう。俳句がたえず正統であり続けることの退屈を作者は知ってしまったのだ。

と述べている。その「正統であり続ける退屈」とは、なんでもありの写生、とりわけ有季定型、花鳥諷詠の、いわゆる俳句の王道のことであろう。その王道からの逸脱をこそ前田吐実男は「面白い俳句という地平」と評したのだ。いずれにして、現代俳句という、現在的な俳句の世界においては、かなり難しい道行であることは疑い得ない。それでも、今後も小町圭はこだわって前に進もうとするにちがいない。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  苦瓜を食べてしまうましまうまし     圭
  雪女お尻にプラと書いてある
  みかん金色持って行きなと手に落ちぬ
  一億円金魚を作ろうと思う
  とりとめもなくあれはせきれい
  産声や降る雪よりも新しい
  汚れちまった八月を影干しに
  夕焼けや只今父は湯灌中
  呉れるなら母が欲しいと生御霊




2017年4月21日金曜日

北大路翼「滅びゆく日本の隅で金魚飼ふ」(『第七回田中裕明賞』)・・



 『第七回田中裕明賞』(ふらんす堂)は、第七回田中裕明賞決定までの選考委員会の経過と、受賞記念の神楽坂吟行、祝賀会の様子などをまとめた冊子(というよりも一冊の分厚い単行本という感じだが)である。候補作句集のいちいちの評価について、石田郷子・小川軽舟・岸本尚毅・四ッ谷龍の各選考委員が意見を交わしているのだが、四ッ谷龍のある種の激しさに(もちろん、作品の評価をめぐってだが)、他の選考委員は抗しきれないという感じがしないでもない。それだけ四ッ谷龍の田中裕明賞に対する熱意が半端じゃないということなのではないだろうか。とはいえ、今回の候補作をみると、たしかに北大路翼『天使の涎』が句集としては最右翼で相応しい、と思う。もっとも、『天使の涎』が他の俳句関係の協会賞を受賞するとは到底思えない。それだけでも田中裕明賞の価値が上がろうというものだ。ついでと言っては恐縮だが、本書冒頭の受賞作品『天使の涎』から32句が紹介されているが、意外に普通の作品ばかりが大人しく並んでいる(一句独立では弱いか?)。むしろ、選考委員の評議の中で語られた句の方が面白く、受賞作に相応しいインパクトがあるようだ。その意味では岸本尚毅が語っていた、受賞作なし、受賞作ありとすれば北大路翼という、田中裕明賞のもつ性格上の判断は妥当なのかもしれない。
ともあれ、以下に、授賞式当日の吟行句会から一人一句を挙げておこう。

  風鈴の音はじめから狂ひある     藤井あかり
  百日紅人通るたび昏くなる      山口蜜柑
  のぼり来し坂かへりみて空涼し    小川軽舟
  三伏の石階に湯を使ふ音       石田郷子
  カフェに浴衣楽しくなつてゐるらしき 岸本尚毅
  時計草ひらく普通のかくれんぼ    鴇田智哉
  着水は身を平らかに通し鴨      矢野玲奈
  鬼灯とわからぬように置いてある   北大路翼
  人体を象る椅子や蝿が附き      四ッ谷龍
  百日紅紙の音たてくづれけり     鎌田 俊
  首細き人のささやき風知草      森賀まり
  脈々と藤下闇の木肌かな       中町とおと



2017年4月20日木曜日

内藤明「皺くちやの拳を開きたらちねはキスチョコ一つわれに呉れたり」(「合歓」第76号より)・・



「合歓」は歌人・久々湊盈子の主宰誌で季刊。義父は新興俳句俳人の湊楊一郎。毎号のインタビューページが特徴でもある。今号は「内藤明さんに聞くー存在の奥にあるもの」。その最後に以下のように結んでいる。

内藤  「知」というものがここ十年二十年でがらりと変わりましたね。人工知能で偶然もデタラメもプログラミング出来るかもしれない。機械が人間を凌駕していく。その先にできることは何か。少しずれますが、空穂は生活実感をいい、武川忠一は人間をいいました。いかにも古めかしいのですが、今思えば、それぞれが時代の中でそれを脅かすものへの抵抗だったのだと思います。生活も人間も言葉も変わる部分と変わらない部分があるはずです。下手な歌を作り続けているわけですが、色々な意味で変わるものと変わらないもの、矛盾するものがともに成り立つ場として、短歌の可能性を信じたいとおもいますね。

インタビューの中から作品を孫引きすると、

 少し違ふ何かが違ふとおもひつつ宵の集ひの大方も過ぐ  内藤 明 
 身を賭して戦はざりし悔しみを哄笑の中に飼ひ慣らしゆく
 兵たりし日を語らざるちちのみの父の戦後の陰を追ひしか 

末尾になったが、今号の久々湊盈子作品から三首を以下に、

 なりかけの歌の言葉がひしめきて春の手帖は生臭きかな    盈子
 トランプのキングのくしゃみで日本が風邪ひきそうな早春寒波
 放射能汚染の有無をみるために飼わるる小鳥も交接の季



                撮影・葛城綾呂 カントウタンポポ↑
          


大場弌子「風に音水に香りや多佳子の忌」(『遠州灘』)・・



 大場弌子句集『遠州灘』(角川書店)、大場弌子(おおば・いちこ)、昭和10年、静岡県生まれ。集名は以下の句から、

   秋燕や遠州灘は母の海    弌子

跋文の黒﨑治夫は、次のように述べている。

 本句集は、「港」入会からの四年間の作品から成っている。『椎の花』から『遠州灘』までの十年間の余白がある。その余白部分にもう一人の弌子さんがいる。私は、近い将来に『大場弌子作品集』として、その余白の部分も含めて、全人格の投影された作品集を見せて頂きたいと思っている。

   涼風や俳誌「港」をふところに

一方、序文は大牧広。そこには、

 さて、大場弌子さんは、細川加賀が興した「初蝶」に拠って、俳句の道に進んだ。

と書かれ、また、

   加賀思ふ金木犀の香なりけり

 ふたたび触れるが、細川加賀という俳人は、ときに磊落、ときに繊細、そのような俳人であったと思う。(中略)
 作者は、あのかぐわしい金木犀の香を想うとき、同時に細川加賀を思う、と書いている。その純一性こそが作者を思わせるのだ。

とも記している。さすがに年齢を重ねた節目に詠んだ句には、作者の人となりが現れていよう。例えば、

  秋袷七十八とは腑に落ちぬ
  酔芙蓉八十歳とはこそばゆし
  八十のからだ大切年酒汲む
  水澄むやこれより先が晩年か

ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておこう。

  海境(うなさか)に雲立ち上がる大暑かな
  卒業の先生の手の泣いてゐる
  片足を富士にかけたる冬の虹
  ときどきは杖となりたる日傘かな
  花の種撒いてゆゑなく溜息す
  美しく老いて行きたし酔芙蓉



  

2017年4月19日水曜日

田中裕明「大学も葵祭のきのふけふ」(『季語になった 京都千年の歳事』より)・・



井上弘美『季語になった 京都千年の歳事』(角川書店)。井上弘美(いのうえ・ひろみ)1953年京都生まれ。
愚生は京都に三年暮らしたことがある。19~21歳の頃、学生には住みよい街だったと思う。愚生はと言えば、最初に読んだ句集が虚子句集であり、最初に読んだ俳句入門書は中村草田男だったにもかかわらず、俳句形式において季語をどのように断念することが可能なのか(俳句形式が自立できるのか)、悩んでいた年頃のことだ。従って、若いゆえばかりとも言えなかっただろうが、本著に書かれた様々の情緒に興味を持てなかった頃だ。時代もそれどころではなかった(70年安保闘争)、まだ生きる事への混沌が続いていたのだ。高度経済成長直前、所得倍増計画に突き進む直前の頃だ。
四条河原町から祇園に至る、円山公園下・八坂神社付近の交差点はデモの解散地点に入る前のジグザグデモの最終地点だった。
時代祭、祇園祭はアルバイトで衣装を来て練り歩いた。五山の送り火には旅館で蒲団敷きのアルバイトをしていた。修学旅行シーズンには皿洗いのバイトもしていた。ようするに二部の学生だった愚生は、アルバイトに明け暮れていた訳である。もっとも長期間に渡ったアルバイトは大映撮影所でのエキストラに小道具係。そういえば「祇園祭」「人斬り」を撮っていた。三島由紀夫を見かけたのは、その「人斬り」のラッシュの時だった。勝新太郎は将棋が好きで、撮影合間によく差していた。馬に乗るシーンは大嫌いで、一発オーケーにするしかないようだった。みんなは少しの待ち時間にも麻雀など、さまざまな賭け事していた。入れ墨のある人たちも多く働いていた。かの柏木隆法著『千本組始末記』通りの世界だ。それでもすでに映画界は斜陽だったころだ。

   白朮火を傘に守りゆく時雨かな   大谷句佛

そういえば、白朮詣(おけらまいり)には、一度行ったことがある。まだ京都市内縦横に路面電車が走っていた。ごく普通にお参りできた。井上弘美が本著に記した、

十二月三十一日午前零時。一時間前から歩行者天国になった四条通を八坂神社に向かって歩いていくと、祇園一力あたりで前に進めなくなった。

というような事態もない頃のことだ。もう50年以上前になる。
井上弘美の除夜の句は、

    しんしんと闇積もりゆく除夜の鐘   弘美



2017年4月17日月曜日

久保純夫「褌が靡いていたる戦争よ」(『四照花亭日乗』)・・



 久保純夫第10句集『四照花亭日常』(儒艮の会)
久保純夫(くぼ・すみお)1949年、大阪府生まれ。1971年「花曜」入会、鈴木六林男に師事。本句集巻尾に記された略年譜をみるだけで、はるかに来つるものかな・・・感慨が生まれる。
久保純夫(当時は「純を」だった)に初めて会ったのは、京都のさとう野火宅だった。
愚生が終刊号のつもりで出した「立命俳句」第7号(1970年刊)を出した直後にわざわざ連絡をとってくれたのだった。その後、彼は「立命俳句」を引き継ぎ発行、さらに同人誌「獣園」をさとう野火を発行人にして立ち上げた。いわば。愚生が俳句同人誌に関わった最初だった。そして、すぐにも彼は第一句集『瑠璃薔薇館』を上梓、その後の第二句集『水渉記』、第三句集『聖樹』のそれぞれの版元である沖積舎、海風社とも愚生とは無縁ではない版元だった。そして1990年の評論集『スワンの不安』、第4句集『熊野集』(1993年)は愚生が務めていた弘栄堂書店を版元として出版された。また、その句集は彼の現代俳句協会賞受賞のきっかけともなった、想い出深いものだ。その受賞は、戦後生まれの俳人が久々に、それも40歳代で受賞する快挙だった。今回の冊子作りの第十句集も彼らしいといえば彼らしい出し方だと思った。「あとがき」にいう。

  この地に住むようになって10年。その歳月はいわば謐かなる激動の日日であったように想います。晴であれ、褻であれ、日常生活のなかにはさまざまな雑用が存在します。私はこの雑用のそれぞれを、自らの生きる姿勢として、智慧として、使命として、俳句を書いてきました。そのときどきを「儒艮」に発表してきたのです。
 ものは愛おしい。家の中で触る、目にする、使うものみなすべて。その想いからは、日本の、世界の、あらゆる状況が繋がっています。思想が生まれてくる刹那でありましょう。

幾つかの句を以下に、
   
     鈴木六林男先生の墓に参る
  瀧までの紅葉に染まり天香る
  片笑窪いつもさよならしておりぬ
  結婚はともに三度目青葡萄
  ひめみこのいずこに届く音叉かな
  半島(ペニンシュラ)を匕首という先師かな
  青春の罫紙に写す『火門集』
  たましいを喰い終わりたるなめくじら

『火門集』は阿部青鞋句集のことだろう。  
装丁は、夫人の久保彩。
末尾に句集の各章のタイトルとなった句から一句ずつを挙げておこう。
  
  野菜屑溜ればミネストローネかな    純夫
  形代やあなたもいっしょに波の下
  一斉にファスナーたちは馬鹿になり
  猫又と諍うている彩のこと
  酢橘風呂というはなけれど酢橘の湯
  ミニトマトアヌスコスモスエンプティ
  一株の水菜をくれし友の妻
  豆腐にもオリーブオイル丼に




  

2017年4月16日日曜日

井上白文地「我講義軍靴の音にたゝかれたり」(「信濃毎日新聞4月12日より」)・・



「信濃毎日新聞、4月12日」のデータをマブソン青眼が送ってくれた。それには、

 俳人・比較文学者のマブソン・青眼さん(48)=長野市=ら有志が、戦時下に弾圧された俳人たちの名を刻む「昭和俳句弾圧事件記念碑」を建てる運動をはじめた。
上田市の戦没画学生慰霊美術館「無言館」周辺が候補地に挙がっている。マブソンさんは「犠牲となった若者たちの名誉回復と慰霊をしたい。今こそ言論、表現、思想の自由が奪われた歴史に学ぶ必要がある」と語っている。

とあった。3人の筆頭呼びかけ人は、マブソン青眼、金子兜太、窪島誠一郎である。碑には弾圧を受けた十数人の俳人の句が刻まれるという。例えば、秋元不死男「降る雪に胸飾られて捕へらる」、栗林一石路「戦争をやめろと叫べない叫びをあげている舞台」、渡辺白泉「銃後といふ不思議な町を丘で見た」など。



ところで、慰霊という言葉で思い出したのが、添田馨『天皇陛下〈8・8ビデオメッセージ〉の真実』(不知火書房・1200円)である。読みやすく、厚くない本なので、是非読んでもらいたい本だ(図書館ででも借りてね・・)。

 今上天皇がこれまでに執り行った「象徴の務め」のなかで、その本質が最も露わにされたのが第二次大戦の戦没者に対する慰霊行為である。今上天皇は、沖縄戦終結の日、広島原爆の日、長崎原爆の日、そして終戦記念日を日本人として決して忘れてはならない四つの日だと過去に述べている。そして実際に、広島・長崎や沖縄への慰霊訪問を実行に移して来た。(中略)
戦争の死者を普遍的に哀悼するという指針をみずからの行為に与え、過去の激戦地へと実際に赴くという形成的な過程のなかで、新たに生み出されたこの主体は、これまで〈象徴〉に過ぎなかった実体なき没主体を、〈象徴存在〉という超越的な境位にまで押し上げたのである。

そして添田馨は言う。

 だが、メッセージを隅々まで読んでも、天皇は自分の「生前退位」のことに直接触れてはいない。むしろ天皇は象徴としての務めを「全身全霊」で全うしなければならないこと。また、そのためには摂政ではだめなのだと言っているのである。ここには明らかに〈8・8ビデオメッセージ〉が孕む真実の意図の、マスコミによる隠蔽操作=すり替えが働いているのだ。

さらに、巻尾では「有識者会議」について

天皇陛下自らが憲法規定に抵触する寸前の大きなリスクを犯してまで、個人としてのお気持ちを全国民に向かって表明するという、この前代未聞の大事件に対するこれが安倍政権の非道な仕打ちに他ならない。私たちはこのことに対して、もっともっと怒りの声をあげていかなくてはならない。そして、みぎひだり(・・・・・)関係なく、真に国民的な議論につながる建設的な意見表明の実績を、かたちにとらわれず積み重ねていく必要があるのだ。私たちの”公共(パブリック)”がいま激しく問われている。

と述べている。それは添田も言うように、今上天皇こそは、現行憲法下で「象徴」を自ら問いながら生きた唯一の人だからである。その「象徴存在」を全うするのだ、ということはとりもなおさず、現行憲法の維持を主張していることでもある。自民党・日本国憲法改正草案(平成24年4月27日決定)には、「第一章 天皇 (天皇)第一条 天皇は、日本国の元首であり、・・・」と元首が冒頭に来る。もちろん、現行憲法は「第一条 天皇は日本国の象徴であり・・・」と続くのである。




 

2017年4月14日金曜日

松之元陽子「安田講堂囀の中にかな」(『青鹿』)・・



松之元洋子『青鹿』(角川書店)、集名は以下の句から、
 
  青鹿(あをじし)の眼逸らさぬ寒日和   陽子

井上弘美の序文にはこうあった。

陽子さんは甲子雄先生に背中を押されて、俳句の道を歩き出したのである。そんな陽子さんを育てたのは、石川静雪、有泉七種といった「雲母」で蛇笏選を受けた「白露」の重鎮、さらに金子青銅の指導を受けるという幸運に恵まれた。

愚生は金子青銅とういう名に反応した。それは愚生も参加した『現代俳句の精鋭・全三巻』(牧羊社刊)である。現在のふらんす堂社主・山岡喜美子の仕事だった。その帯には「20代30代作家を一堂に結集して現代俳句の可能性に挑戦。1985年の作品100句を収録した精選アンソロジー。俳句の現在を映し出し、新しい夜明けを告げる。」とある。もとより句のない愚生は、そのⅠ巻に、書下ろし100句で臨んだのだった。改めて、その時の金子青銅の100句「長良川」をみると、当時の愚生は以下の句に〇を付けていた。

   天辺へ鳥来ては去り年詰まる     青銅
   十二鵜の一鵜はげしく火の粉浴び
   仏像の七影生るる梅雨の月
   天意すなはち月光の結露かな
 
そして彼は「今の私にとって俳句は一句入魂のつみかさねである」と記していた。ぞの金子青銅は65歳で逝った。その金子に「三伏や美濃の要は金華山」の句がある。その句に、松之元陽子の次の句を重ね合わせた。
  
   三伏の山には山のこゑ満ちて

ともあれ、以下いくつかの句を挙げておこう。    

  満開のさくら桜につつまるる
  霧雨の後の結晶紫蘇の花
  死は白き花もて悼む秋風裡
  八月の空応援歌鎮魂歌
  夜の雪黯き余白を埋めにけり
  おもひだすこゑは言霊冬が来る

松之元陽子(まつのもと・ようこ)、1957年、東京都生まれ。



↑Ⅱ巻の収録俳人は、金田咲子・金子青銅・鎌倉佐弓・岸本尚毅・久保純夫・熊本良悟・佐野典子・島谷征良・摂津幸彦・高原耕治・田中裕明・辻桃子・対馬康子、同時代論は行方克己だった。もう30年以上前ことだ。



2017年4月12日水曜日

河野哲也「生も死もあまねく照らし月天心」(『双樹の欅』)・・



河野哲也『双樹の欅』(文學の森)。句作は平成13年「澪」入会によってはじめられたらしい。著者は1932年、東京生まれだから、70歳を過ぎての俳句入門ということになる。だが、序文の藤田宏は「企業での長年にわたる勤めを果たした後の俳句入門だから若いとは言えないが、その後の呑み込みの速さには眼を瞠るものがあった」、また跋文の松林尚志は「その精進ぶりと進歩は眼を見張るばかりで、学芸への造詣ぶりや豊かな教養は句作の素地を充分身につけていたことを窺わせた」と記しているように、句歴の長さが佳句を生み出す条件では決してないことがわかる。人生に向かう厳しい姿勢がおのずと現れているのである。それらの事情を河野哲也は「後書」で以下のように述べて言う。

 軽い気持ちで始めた俳句が、いつしか晩年の人生の大きな部分を占めるようになりました。そのお蔭で自然の素晴らしさ、人生の奥行きの深さ、人間の性(さが)の複雑さ等により深く触れることができ、感謝のほかありません。

ともあれ、いくつかの句を以下に挙げさせていただく。

  生まれきてすでに余生か蝸牛      哲也
  寒夜仰ぐシリウスに哀しみの青
  水仙を御手(みて)にお后黙礼す
  天涯に人影多き敗戦忌
  露けしや進むほかなき老いの道
  空真青居間に黙禱終戦日
  薔薇の名はプリンセスミチコ去り難く
  春めくや人の声より鳥の声 
  

2017年4月11日火曜日

宮﨑二健「二階の床の間の琴の如何に(ニカイノトコノマノ͡コトノイカニ)」(「不虚」15号)・・



 森山光章個人誌「不虚(ふこ)」15号。巻頭は「女と火魔一濤を(オミナトヒマヒトナミオ)-宮﨑二健の作品を読む」である。宮﨑二健は知る人ぞ知る回文俳句を書く俳人である。また、新宿東南口すぐにあるジャズバー・サムライのオーナーでもある。邑書林の「セレクション俳人21『宮﨑二健集』」に予告されながらいまだにその発行がされていない待望の俳人である(「豈」の古参同人でもあるが・・)。森山光章が以下のように記した部分がある。

 「回文俳句」は、〔意味〕と〔音韻〕の痙攣(・・)である。その〔意味〕と〔音韻〕の無規範的衝突(・・・・・・)は、痙攣(・・)をもたらす。そこには、〔終わり〕だけがある。〔俳句〕は、〔終わり〕のエクリチュールである。〔俳句〕の本質は、季語でも定型でもない。〔終わり〕の夜(・)である。〔終わり〕だけが、〔もう一つの別の主體〕を現前させる(・・・・・)。(中略)
 現代俳句は、本質的な領域を開示しなくなって久しい。それは〔俳句〕への冒瀆である。〔俳〕は〔人に非ず〕である。〔俳句〕は〔宙宇〕と相即している(・・・・・・)。〔俳句〕は、〔彼方〕であり、砕滅(・・)である。〔俳句〕は恐るべき詩形である。〔すべてが言える〕。〔俳句〕は〔存在〕である。〔語りえぬものを語らなければならない〕。それが、〔俳句〕である。

 「不虚」同号、その他、森山光章論考の題を挙げておくと、「暴力としての〔俳句〕-土居漠秋句集『犀』を読む」、「〔誼〕の言之葉ー川口常孝先生の歌集を読む」、「〔自立支援〕批判」である。
ともあれ、冒頭の宮﨑二健の回文俳句をいくつか以下に孫引きしておこう。

  抱く時は良か余は危篤だ(ダクトキハヨカヨハキトクダ) 二健
  積み木入れに溜まる猿股に霊気満つ(ツミキイレニタマルサルマタ二レイキミツ)
  寄り沿う卒塔婆夜馬と添う反りよ(ヨリソウソトバヤバトソウソリヨ)
  啄木鳥突く樫の木の死角突き突き(キツツキツクカシノキノシカクツキツキ)



                  撮影・葛城綾呂↑ 

2017年4月9日日曜日

高橋将夫「春愁のマグニチュードとベクレルと」(『蜷の道』)・・

 

 高橋将夫第六句集『蜷の道』(文學の森)、著者は岡井省二の没後、「槐」を継承した。集名は以下の句から、

   田一枚知り尽くさんと蜷の道    将夫

「あとがき」には、

 俳句の道に入って十年、主宰を継承してから十五年、通算二十五年余りが過ぎた。先師から継承した「俳句は精神の風景、存在の詩」の理念のもとで、「①簡明 ②深さとひろがり ③新鮮さ、オリジナリティー、作者ならではの視点」に留意して、自分なりの表現で、自分なりの俳句曼荼羅の世界を展開してきた。

とある。著者の師である岡井省二にはいくつかの思い出がある。ひとつは愚生が現代俳句協会青年部委員をしていた頃、シンポジウムのパネリストにお願いしたこと、あと一つは北宋社から出た『岡井省二の世界』に執筆させてもらったこと。そして、現在もなお「豈」同人である小山森生にまみえたことである(当時は岡井省二主宰「槐」にいた)。
 その岡井省二が没してからも16年が経とうとしているのだ。主宰誌「槐」の創刊が遅く、独特な句風、しかもわずか10年ほどだったので、そのまま廃刊になるだろうと思っていたら、高橋将夫が継ぎ、もはや岡井省二生前よりもかなり長い年月を主宰として務めたことになる。感慨もあろうというもの。
ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

   白板は全てが余白のどかなり
   人生と夏山のよく曲がる
   戦する星もありなん冬銀河
   三日月の欠けしところを子が塗りぬ
   真つ黒な雲真つ白な雪降らす
   よく笑ふ人はよく泣く桃の花
   異次元はこんなところよ春の闇
   原発の灯す秋灯親しめず
   人類のはびこる星を鳥渡る



  



2017年4月7日金曜日

高橋龍「明の春彼(あ)の日或(あ)る日に後退(あとずさり)」(「面」121号)・・



「面」(面俳句会)は、1963年4月西東三鬼死去により「断崖」が終刊。「断崖」東京支部を母体に発足した同人誌である。いわゆる三鬼門である。ただ1984年通巻99号で休刊し、2002年100号をもって復刊、現在は、創刊同人は一人もいず、三鬼門をはずして現在に至っているという。今年は三鬼没後55年、というわけで三鬼特集である。再録されているのは、山本紫黄と山口澄子の対談「三鬼先生裏話」(「断崖」終刊号・昭和37年10月)、「師弟対談、西東三鬼・三橋敏雄 俳句よもやま」(「俳句研究」昭和35年12月号)。労作は、高橋龍の「戦時下の東京と西東三鬼」(自・昭和三年 至・昭和十七年)の詳細な年譜。さらに戦後、三鬼が広島に取材した作品「有名なる町」8句(「俳句人」昭和22年・5)をめぐるGHQの「検閲文書」のコピー。高橋龍の解説によると、

一、検閲期間(昭20・9-昭24・10)に提出された資料は終了後、メリーランド州立大学)歴史学教授G・W・ブランゲが米国に持ち帰り「ブランゲ文庫」と命名された。そのうち雑誌三五〇〇誌(紙)九五〇〇冊がマイクロフィルム『占領軍検閲雑誌』として雄松堂から発行され、国立・国会図書館の「憲政資料室」で一般に閲覧できる。二、そのうち俳誌は、六六五誌「俳句研究」「現代俳句」のような総合誌、「ホトギス」や「馬酔木」という旧派の雑誌まである。(中略)現に三鬼の句についても初出の「俳句人」ではパスし、「暖流」ではひっかかっている。四、三鬼作品と窓秋の鑑賞文の違反理由は、「暴力または社会不安の扇動」にあたるであって、プレスコードには原子爆弾に関する項目は一つもない。しかしながら、原爆投下は、占領軍が最も知られたくない覆い隠したい事実なのである。(中略)この「社会不安の扇動」を支えているのは、さらに漠然とした「公共の安寧を乱す」である。(中略)
 「公共」黄門様の印籠のようなもので、目に入らぬかと言われれば、へいと頭を下げざるを得ない。公共の範囲はもっぱら国家権力が決めているのだ。「共謀罪」に「公共の安寧を乱す」は今も生きている。

と述べている。
本号には23名の同人作品20句が掲載されているが、以下に三鬼の弟子であった三橋孝子と「豈」の同人である人の句のみを挙げておきたい。

  白昼の”夕日の滝”はただの滝      三橋孝子
  あの日から冬が嫌いに長濤忌      池田澄子
  白日傘脚美しく迫りくる        北川美美
  ソムリエの指美しき西東忌       福田葉子




   

2017年4月6日木曜日

古田嘉彦「壊れたピアノ>機械仕掛けの門番」(『展翅板』)・・



古田嘉彦第三句集『展翅板』(邑書林)、巻末には、工房ノート(後書にかえて)が置かれているが、富澤赤黄男の「クロノスの舌」のように、時に、詩論でもあり、箴言でもあるようなよそおいである。工房とは書かれているが、それが一般的な俳句を書こうとする際の尺度には遠い、印象である。句自体の創造性は感じられるものの、そこに潜む、いや、信仰者としての姿勢、痕跡を読者は否が応でもたどることになるだろう。
とりわけ、後半の句群の前に置かれた詞書には、句との不即不離を訴えてくる。例えば、

  タヒチで、自殺しようとヒ素を持って山の方へ歩いていく間、ゴーギャンはずっと、描きあげたばかりの絵の題でもある「我々はどこから来たのか、我々は何物か、我々はどこへ行くのか」と呟いていたと知り、痛ましさが迫ってきた。信仰が無ければ、人生の道が開けず、異郷で孤独で、母国にいた最愛の娘に死なれた男に、この問いへの答えはないだろう。それは絶対にないと思う。

芽吹く日は涙の人へ嵩ばっていく 

いわゆるフツーの句集を読むのとは違う。ただ、それらの中で「強制」という言葉がいくつかの句に用いられ登場したので、二、三を挙げる。

  油断するとサファイア 強制的に空(そら)だから
  十日町を真似て猫を強いる染め方
  操縦士の硝子化よりも感情の強制

以下には、いくつか愚生の目に留まった句を挙げておきたい。

  抑えきれない鳥 全部糸は切った
  
  羽ばたきから眼を離すことができない。その羽ばたきから。
  過去の鷺から蹂躙みなぎる耳鳴りが

  空になじめぬ葛ノート覆い Soli Deo Gloria
                                              (神にのみ栄光)

  それまで正しいように見えていたことと全く違うところに神は道を示される。神が望まれることを、人は苦痛なしに行うことはできない。
  雨あがり夏衣に縫い針が残っている
 
古田嘉彦(ふるた・よしひこ)1951年、埼玉県生まれ。



2017年4月5日水曜日

攝津幸彦「大学 五月 薔薇という字を また忘れる」(『昭和俳句作品年表(戦後編昭和21年~昭和45年)』」より・・



 『昭和俳句作品年表 戦後編 昭和21年~45年』(東京堂出版)は、現代俳句協会が創立60周年記念事業の一つとして編纂してきて、今年の創立70周年直前にようやく成った労作である。「戦前篇」に次ぐ貴重なテキストになるだろう。編集委員代表の宇多喜代子も述べているように、今後、昭和45年以後、昭和の終わりまでが纏められてはじめて、昭和作品年表が完成するのである(編纂途中に村井和一、大畑等を失ったことが記してあった。お二人とも惜しいが、とりわけ大畑等は愚生と同年代の若さだった)。
 感慨深いのは、昭和44年の部分に、愚生も忘却していた作品「地底棲む流浪の眼玉蟹歩む」をよくも初出誌より見つけ出してくれたものだと思った。その前年の昭和43年には、ブログタイトルに揚げた攝津幸彦の句が、口語、現代仮名遣い、一字アケの作品が収録されていること、また、高野ムツオ「翼欲しい少年街は黄落期」、島谷征良「蝌蚪散つて天日うごく水の上」があったことである。同世代では西村和子「草刈機草を噛みたる音をたて」、宮入聖「灰の中より秋風の立てりけり」など。同時期にしょうり大「身の軽くなるきつつきの声の中」、阿部完市「ローソクもつてみんなはなれてゆきむほん」、飯島晴子「これ着ると梟が啼くめくら縞」、飯田龍太「一月の川一月の谷の中」、赤尾兜子「機関車の底まで月明らか 馬盥」、加藤郁乎「牡丹ていっくに蕪村ずること二三片」、三橋敏雄「たましひのまはりの山の蒼さかな」、三橋鷹女「枯羊歯を神かとおもふまでに痩せ」、永田耕衣「男老いて男を愛す葛の花」、金子兜太「暗黒や関東平野に火事一つ」など挙げればきりもない。
 また、本著には巻末に川名大が「戦後俳句の展望ー『近代』と『反近代』の諸相」と題して、「一新俳壇の形成(昭和二十一年~二十五年)」、「二『戦後派』の台頭と『社会性俳句』の勃興(昭和二十六年~昭和三十年」、「三 前衛俳句の勃興(昭和三十一年~三十五年)」、「四 俳壇の断層(昭和三十六年~昭和四十年)」、「五 昭和世代の台頭(昭和四十年~昭和四五年)」の章を立てて戦後俳句史を描きだしている。



 ここで、『昭和俳句作品年表・戦後編』の昭和45年以後、つまり1970年代以後、現在にい至る俳句界の動向を執筆した、手際のよい雑誌を紹介しておこう。NHKカルチャーラジオのテキスト4月~6月放送分の青木亮人著「文学の世界『俳句の変革者たちー正岡子規から俳句甲子園まで』」(NHK出版)である。
 その目次をたどると、第9回放送「全共闘時代の熱気と反骨精神ー60-70年代」以後である。そこには1969年「京大俳句」中谷寛章、当時27歳の一文が以下のように引用されている。 

 青春のポエジーはそれ自体、不安定なものであると思っている。それは詩人の個的な情念と社会意識との分水嶺をはげしく流動しつつ、新しい土地への自由な航行を志向する。

 また、当時「日時計」に拠った坪内稔典や攝津幸彦の主張、作品も紹介されている。坪内稔典「魚くさい路地の日だまり母縮む」、攝津幸彦「梅雨明けの彼岸のベルの凄さかな」、澤好摩「椅子はみなあふむけに燃ゆ油闇」、竹中宏「街を出る喝采のごと肩の汗」など。続いて第10回「豊かさ」がもたらした地方再発見ー70年代」、第11回「『おおきくて野暮』から「器用で洗練された』へー80-90年代」、第12回「日本人は「死」をどう描いてきたかー戦後と現代」などと続き、最後は、第13回「洗練された表現、大震災、現在の若手俳人たちー90ー00年代」において、現代歌人の斉藤斎藤、荻原裕幸、加藤治郎、穂村弘に対応させながら、『新撰21』から鴇田智哉「円柱は春の夕べにあらはれぬ」、関悦史「人類に空爆のある雑煮かな」、俳句甲子園からは、神野紗希「カンバスの余白八月十五日」、佐藤文香「少女みな紺の水着を絞りけり」、他にはまた、村上鞆彦「枯山のうしろの空の雪の山」、あるいは、髙柳克弘「茄子を焼く煙あはしや恋をはる」、彌榮裕樹「鶴帰る滋賀銀行の灯りけり」、坂西敦子「金魚揺れべつの金魚の現れし」、生駒大祐「秋燕の記憶薄れて空ばかり」などを紹介している。
放送はラジオ第2放送、放送日は木曜日は午後8時30分~9時、再放送は翌週木曜日の午前10時~10時30分。最近、ラジオなど聞いたことがないので、久しぶりに一度は聞いてみようかなと思っている。青木亮人ってどんな声をしているのだろう。楽しみに・・。




2017年4月4日火曜日

安井浩司「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」(『ひるすぎのオマージュ』より)・・


大関靖博著『ひるすぎのオマージュ』(ふらんす堂)。帯には、安井浩司の以下のオマージュが配されている。

 山中の暗闇の難路を征く一介の旅人に、岩陰より奇蹟の恵燈を送ったのが本書であろう。そればかりか、苦難の現代俳句そのものを高く導き、真のビジョンをそこに探り当てようとした稀有の一巻といえよう。

本書は一冊すべてが安井浩司論である。しかも、当初より一貫して安井浩司を射程に入れて追及してきたことが伺われる。その初出は、「季刊俳句」(昭和60年第7号)で、最後の掲載誌は「轍」(平成28年7月)であるから、およそ30年間に及んだものである。「季刊俳句」7号というのは、宮入聖(冬青社)が編集発行していた雑誌だから、あるいは愚生は目にしていたかもしれないが、そのほかの掲載誌、「櫂」「航標」については未見である。いわば愚生にとっては初めて読むものがほとんどなのだ。全9章に分けられいて、最後の章が、書名ともなった「ひるすぎのオマージュ」である。これは言わずと知れた安井浩司の句「ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき」考だ。
この労作といってもよい長期にわたる精緻な論考は、かつて福永耕二が大関靖博について評していたように、信頼すべき、善良で、誠実な人柄、芯の強さ、英文学の学究の徒であるということから生み出されてきていると思う。
本著には難しいと言われていた安井浩司の俳句がどのような在り様を示しているか、明解に読み解かれている。

 (前略)全体的なパースペクティブから見ると、安井浩司は私としては松尾芭蕉以来内的グローバリゼーションの俳句化に成功したはじめての俳人であると思うのである。明治以降ヨーロッパ文化を紹介したり真似をして日本文化に翻案的な俳句を作ってきた俳人は沢山いるのであるが、丁寧に消化してさまざまな要素を綯い交ぜにして身近な俳句に昇華したはじめての俳人が安井浩司なのである。
 
と評している。また、若い神野紗希や髙柳克弘が安井浩司の句にほどこした最近の読みの成果を、正しく評価し記した本書には、一読の価値があると思う。




2017年4月3日月曜日

攝津幸彦「南国に死して御恩のみなみかぜ」(『俳句という他界』より)・・



関悦史『俳句という他界』(邑書林)。著者「あとがき」に、

 本書は私の最初の評論集となる。この中で最も古い原稿は二〇〇六年の「幸彦的主体」である。

  と記され、本書に収められた一番最近のものは、初出一覧によると、「朝日新聞」二〇一四年十二月八日朝刊「歌壇俳壇」欄の「渡辺白泉の『不思議な町』である。最近、最新といっても三年以上以前のことになる。
約10年ほど前の、「幸彦的主体」の部分には以下のように述べられている。

 抽象語が肉体性を帯びているのではない。幸彦句においては具体物をさす語が、全て透明にしなやかに抽象化されているのだ。原初的な記憶にもぐりこみ、郷愁に濾過されることによって。
 《南国に死して御恩のみなみかぜ》における天皇もそうした晒しあげられた官能的な抽象である。のちに『陸々集』に収録される日記連載中の幸彦がたまたま昭和天皇の崩御に接し、この時事を句に取り込めなかったのは当然であった。

 そしてまた、渡辺白泉『不思議な町』では、以下のように記す。

  戦争が廊下の奥に立つてゐた

気づいたときに戦争は、暮らしにも内面にも立ち混じっている。いや国民の側が招き入れている。翌十五年、京大俳句事件が起こった。ただ俳句を作っていただけの人々が治安維持法違反の嫌疑をかけられ、白泉も検挙された。翌十六年の今日、太平洋戦争開戦。「銃後」の非戦闘員も無差別に爆撃を受けた。そして明後日、特定秘密保護法が施行される。「特定秘密」は約十六万件にも上るという。何が秘密にあたるかは誰も知らない。選挙の争点にもあんまりなっていない。「不思議な町」は今眼前にある。

 その頃から、壮大のゼロといわれた70安保闘争以来の(動員数でははるかに及ばなかったが)、実に平和な、非暴力、直接行動の抗議の声が国会を取り巻いていったことは記憶に新しい。
 そして、今日、4月3日(月)、東京新聞夕刊には、テロ対策を強調した拡大解釈自由の「『共謀罪』6日審議入り」の見出しが舞っている。ますます事態は我々にとって悪くなっている。「不思議な町」は眼前にあるのだ。

末尾になったが、本著のカバー、表紙、大扉の写真には、著者自身制作のオリビア(黄色い一つ目の物体)が、関悦史の友人・小野健一の撮影によってそれぞれに飾られている(装幀も著者との両名による)。
関悦史、1969年、茨城県生まれ。




2017年4月2日日曜日

櫛部天思「山笑ひ海笑ひ嬰泣いてをり」(『天心』)・・



櫛部天思『天心』(角川書店)。集名の由来は、著者「あとがき」に、

    天心に星のあがりし寒鮃
 句集名は、天上の星になられた先生の御心に適いたいとの願いで、掲句から名付けました。まさに『天心』は、亡き先生に捧げる句集です。

とある。先生とは、阪本謙二「櫟」主宰。一昨年の暮に急逝したとのことである。著者は現在、その「櫟」の副主宰だという。序文は現主宰の江崎紀和子。その序の冒頭に、

 櫛部天思(くしべてんし)とわたくしは、平成五年に俳誌「櫟」を創刊した阪本謙二を師とした、言わば血のつながらない姉と弟である。

とあった。さすがに姉弟のちぎり、情愛の深い序文となっている。
偶然だが、先日届いた「子規新報」の特集が「櫛部天思の俳句」で、小西昭夫抄出30句が掲げられている。愚生はいつも思うのだが、小西昭夫の選句と、愚生の選句は違うなぁ、ということである。もちろんそれぞれの選句は違って当たり前のようなものだが、俳句観の違いが出る。どちらがいい悪いということではない。愚生はその違いをみるのが好きだ。そして、いつも「この選句は、コニシらしいな・・」と一人呟く(中には選の重なる句も、もちろんある)。

ともあれ、以下にいくつか句を挙げておこう。

  花冷の邪鬼のこぼれんばかりの目       天思
  去年の闇今年の闇となりにけり
  タイ語ロシア語爽涼の造船所
  笑ふ嬰新松子舐め何でも舐め
  座せば尻のかたちに窪みうまごやし
  大街道抜けて涼しき風に会ふ
  芋虫をつまめば皮のなかうごく
  八の字を一の字にして扇置く
  雪嶺のかくもしづかに師を憶ふ
  
櫛部天思、1967年、愛媛県生まれ。