2017年4月11日火曜日

宮﨑二健「二階の床の間の琴の如何に(ニカイノトコノマノ͡コトノイカニ)」(「不虚」15号)・・



 森山光章個人誌「不虚(ふこ)」15号。巻頭は「女と火魔一濤を(オミナトヒマヒトナミオ)-宮﨑二健の作品を読む」である。宮﨑二健は知る人ぞ知る回文俳句を書く俳人である。また、新宿東南口すぐにあるジャズバー・サムライのオーナーでもある。邑書林の「セレクション俳人21『宮﨑二健集』」に予告されながらいまだにその発行がされていない待望の俳人である(「豈」の古参同人でもあるが・・)。森山光章が以下のように記した部分がある。

 「回文俳句」は、〔意味〕と〔音韻〕の痙攣(・・)である。その〔意味〕と〔音韻〕の無規範的衝突(・・・・・・)は、痙攣(・・)をもたらす。そこには、〔終わり〕だけがある。〔俳句〕は、〔終わり〕のエクリチュールである。〔俳句〕の本質は、季語でも定型でもない。〔終わり〕の夜(・)である。〔終わり〕だけが、〔もう一つの別の主體〕を現前させる(・・・・・)。(中略)
 現代俳句は、本質的な領域を開示しなくなって久しい。それは〔俳句〕への冒瀆である。〔俳〕は〔人に非ず〕である。〔俳句〕は〔宙宇〕と相即している(・・・・・・)。〔俳句〕は、〔彼方〕であり、砕滅(・・)である。〔俳句〕は恐るべき詩形である。〔すべてが言える〕。〔俳句〕は〔存在〕である。〔語りえぬものを語らなければならない〕。それが、〔俳句〕である。

 「不虚」同号、その他、森山光章論考の題を挙げておくと、「暴力としての〔俳句〕-土居漠秋句集『犀』を読む」、「〔誼〕の言之葉ー川口常孝先生の歌集を読む」、「〔自立支援〕批判」である。
ともあれ、冒頭の宮﨑二健の回文俳句をいくつか以下に孫引きしておこう。

  抱く時は良か余は危篤だ(ダクトキハヨカヨハキトクダ) 二健
  積み木入れに溜まる猿股に霊気満つ(ツミキイレニタマルサルマタ二レイキミツ)
  寄り沿う卒塔婆夜馬と添う反りよ(ヨリソウソトバヤバトソウソリヨ)
  啄木鳥突く樫の木の死角突き突き(キツツキツクカシノキノシカクツキツキ)



                  撮影・葛城綾呂↑ 

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