2017年8月11日金曜日

福田若之「白壁にか黒い蚊グロいかグロい」(「オルガン」10号)・・

 

 オルガン10号の読み物には、片山由美子と田島健一の対談と浅沼璞と柳本々々の往復書簡「『字数の問題』をめぐって」が掲載されている。いずれもそれぞれに興味深いが、片山由美子が対談で語っていたある部分にだけ、すこし異議を唱えておこう。それは、

 片山 (前略)私が俳句を始めたころは、住み分けていたんですよ。高柳重信さんが編集長だったころの『俳句研究』っていうのは執筆依頼も含めて前衛の人ばかりでした。五十句競作で競い合い、俳句研究からデビューする、みたいな。

 どうでもいいことだが、「執筆依頼も含めて前衛の人ばかりでした」というのは少なくとも間違いだろうと思う(もっとも愚生も直感で言っているのだが・・)。当時、髙柳重信の部下として編集部にいた澤好摩にきけば、もっとはっきりすると思うけれど、髙柳重信は俳句形式を語る時には前衛も伝統もなく公平だった。従っていわゆる伝統派も前衛派にも半々程度に作品依頼をし、作品掲載が成されていたと思う。愚生はそこで、いわゆる伝統系であれば、女性作家では、清水径子、飯島晴子、岡本眸、古賀まり子、石田あき子、寺田京子、野沢節子などを読んだ記憶がある。男性では飴山實、上田五千石、上村占魚、清崎敏郎、能村登四郎、波多野爽波、福田甲子雄、草間時彦、森田峠、磯貝碧蹄館などを思い出す。川柳の時実新子もそうだ。
 一方角川の「俳句」は、前衛系にはほとんど依頼しなかったのではなかろうか。というわけで、相対的にみると「俳句研究」のほうが前衛系の俳人ばかりという印象をもたらされていたのではなかろうか。先入観や図式的にものを見てしまっては眼が曇る。
 愚生が最初に「俳句研究」を手にしたのは、二十歳の頃、京都の百万遍近くの小さな書店に一冊だけ置いてあったのを、買っていた。そして、記憶があいまいだが、その中の小さな広告、もしくは時評欄で坪内稔典「日時計」を知り、購入したのだった。その頃の「俳句」も中味の濃い作家特集をしていた。角川源義の「俳句」にもがんこな骨があったのだ。それは片山由美子がいう住み分けではなかった。さらにいえば、角川原義が髙柳重信にある信頼を置いていたらしいことは、髙柳のエッセイにも具体的に書かれている。
 以下に「オルガン」10号より、テーマは「切れ」。

    黄や赤に光が蜘蛛の巣に届く    宮﨑莉々香
    玉蜀黍割るや採血せし両手     宮本佳世乃
    夏や空すとんと落とすように着る  田島健一
    システムや指の模様をわたる鳥   鴇田智哉
    夏の月細胞膜のなかへ差す     福田若之 




★閑話休題・・・

宮﨑莉々香つながりで「円錐」第74号に眼を移すと、宮﨑莉々香は以下のように述べている(『今、田中裕明を読み直す』2)。

 この文章を書くために様々な裕明論を読んでいる訳だが、みんな裕明に期待しすぎていると思う。裕明はもういない、なのに、裕明が生きていたら今、どんな俳句を書くだろうなんてつまらないことを言う。私は何よりそれが嫌だ。大事なのは、今、自分がどんな俳句を書くかではないのか。

そして、山田耕司の編集後記には、
 
 ▼金原さんが九十九歳の頃から文通をしていた。〈前略 体調により俳句つづけてゆけなくなりました。(中略)さようなら 少年兵どの〉山田耕司を〈少年兵どの〉と呼び続けてくれた金原まさ子さんの最後のハガキ。追記にこうある。〈円錐73号拝見 胸がかきむしられるようです〉▼これは円錐新鋭作品賞への思いだろう。ここにあるのは、自在にものを表現することへのせつないまでの希求。▼表現への〈胸がかきむしられ〉るほどの思い。それは金原まさ子が少年兵にくれた最後のプレゼントだ。

とあった。宮﨑莉々香の言挙げもまた、表現への〈胸がかきむしられる〉ほどの思いにつながっているはずである。


           撮影・葛城綾呂↑

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