2017年9月2日土曜日

木割大雄「まあ聴けと墓前に来れば遠雷す」(「カバトまんだら通信」40号)・・



 「カバトまんだら通信」40号(発行・カバトまんだら企画)、著者は木割大雄、編集人は榎本匡晃、藤井弥江(みやず)とある。巻頭文の「お久しぶりです」によると、平成8年10月に出し始めて、不定期刊、今号で40号、前号を出したのが、昨年の3月、1年に一冊も出していない、辞めたのか、という問いに、

 〈通信〉は、師・赤尾兜子の人と作品について書き続けること。それはそのまま「俳句とは何か」を考え続けること。辞めません。

 とあるように、一貫して赤尾兜子の全てについて書き続け、資料をその都度、開示している。実に貴重な通信である。
 「兜子への旅ー朝の李花」に、久しぶりに灘の海を見下ろせる住吉霊園の兜子の墓に参ったことと、

   初がすみうしろは灘の縹色    兜子

 について、
  
 兜子の句には謎が多い。表記も謎のひとつ。仮名づかいの変化も、漢語、ルビの振り方にも統一感がない。題材は言うまでもなく世界は多岐にわたる。ときに弟子を悩ませ、読者を困惑させる。この一句も、縹色などという見馴れない文字を使いながら初がすみ。霞、とは表記しない。

 『歳華集』の最終校正に立ち会ったとき「先生、墓の句で始まって墓の句で終わるんですね」と言ったら、兜子は、最後の一句となるはずあった「蟻酸の墓身を盡しつつ浮蛍」を、「ふむ、入れ替える」と言って、その場で、のちの評判になる句「葛掘れば荒宅まぼろしの中にあり」を掉尾に入れたという。そして、先生には師がいなかった、とも記している。

  赤尾兜子は初めから最後まで自己流で書き続けたのだ。途中で変化したのではない。伝統回帰なんぞしたのではない。初めっから、多様な、矛盾だらけの文体で書いたのだ。

 と述べている。そうだろうと思う。それを髙柳重信は、他のだれにも紛れない詰屈な文体と呼んだ。
 愚生が最初に髙柳重信に会ったときに、「大井君はどこにいたのかね・・」と聞いた。愚生は、赤尾兜子の「渦」です、と言うと、「兜子か、あれは僕の弟分のようなものだから・・・」と答えた。だが、愚生は、生前の兜子に一度も会ってない。三年間の京都にいた最後に「立命俳句」第7号を出した。そのとき、「こういう活動もされているのですか」という葉書を一度貰った(それも手元にはない)。あれから、もう47年が経つ・・・。

  俳句思へば泪わき出づ朝の李花       兜子
  大雷雨鬱王と會うあさの夢

  鬱王に魅せられしゆえ恍惚と苦痛と俳句思う泪と  藤原龍一郎
 
  水遺るは好きな鉢のみ兜子の忌      木割大雄

 鬱王忌(兜子忌)は3月17日、享年56。兜子は亡くなる1週間前に重信に電話をしている。



           撮影・葛城綾呂↑

   

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