2018年2月6日火曜日

日野百草「狐火の赤か救急車の赤か」(『無中心』)・・



 日野百草第一句集『無中心』(第三書館)、愚生の懐かしくも、少し感懐のある出版社からの刊行だ。かつて30年ほど前に書店員だったころ懇意にしていた出版社だ。当時は
『マリファナ・ナウ』や『ザ・漱石』、ザ・〇〇、歳時記シリーズなどを出し、一等最初は『パルチザン伝説』桐山襲の海賊版?だったような・・・(ほぼ、忘却の彼方に沈んでいるが、間違っていたらゴメン)。
 話を句集本題に戻して、著者「あとがき」によると、

  心筋梗塞で死にかけて、心臓の半分が壊死した身となり、いつやもしれぬ今生を鑑みて、わずか句歴三年で句集を出すに到った。
 表題は河東碧梧桐の無中心論から頂戴しているが、彼の無中心に対する世間の長きに渡る誤解に対する辯駁として句集を編んだ。私自身の、これからの俳句の新たな無中心としての意味合いもある。これは至極単純な話であり、俳句に伝統だの、現代だのという垣根は存在しないということであり、テクストの中心も創作の段階では存在しないということである。
 旧来的な中心を、これからの俳人は持ってはならない。

とあり、威勢がいい。序文は「無中心の中の自己写生だ」と述べる星野高士、解説は「日の俳句力の核心にあるのは〈虚構の構成力〉」という秋尾敏、そして編集人には松田ひろむとある。少しく俳壇の事情を知る人にとっては、まことに無中心の幸運の産物というべきか。
 ともあれ、いくつかの句を以下に挙げておきたい。

   風光る中を歩いてゐたはずだ    百草
   難民の子が死ぬ蠅の王生まる
   ガマ深く薬莢を抱く大百足
   託児所のよく泣く児らと月を待つ
   武器もなく立たされてゐる案山子かな
   福祉課の窓口で蓑虫となる
   人を殴つ拳と麦を蒔く拳
   原子力空母と知らず浮寝鳥
   冬の雨国敗れても人生きる
   来る人も出る人もなく雪の寺
   雪しまく一本道の先は朝

日野百草(ひの・ひゃくそう)、1972年、千葉県野田市生まれ。







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