2014年12月20日土曜日

大岡頌司「ともしびや/おびが驚く/おびのはば」(「未定」98)・・・



第二次「未定」98号、表Ⅱの「一句鑑賞エッセイ」は田沼泰彦。その卓抜な俳句形式への識見を紹介したい。大岡頌司の三行の俳句に対して、次のように言う。実に見事な言い表しようである。

 そもそも俳句形式の成立には、必然性という「(不在=存在)証明(アリバイ)」を必要としたが、形式の破壊をアリバイにした重信を除けば、誰もがアリバイを探しあぐねていた。その中のひとり大岡頌司だけは、端から必然性を放棄していたと言っても過言ではない。その多行形式は、あたかも約束事であるかのように、上五・中七・下五で改行した三行表記で、改行の必然性として誇示できるような方法的道筋は見えない。そこには重信の敗北によって「形式」から姿を変えた「俳句形式」という、鄙びた風景があるばかりだ。敗北によって灯火にさらされた「俳句形式」には、すでに勝ちもなければ負けもない。勝ちといい負けといい、それは人知によって認識された存在様態に他ならず、大岡俳句の風景と人知とは相容れない。そこには、あたかも自然が分娩したような産血の温もりが感受される。つまり、大岡の前衛性とは、言葉の存在様態をその意味ではなく、その肉体性に求めた点にある。大岡の「アリバイ」とは、胎内回帰願望でもあるのだ。

     
田沼泰彦は先般『断片・天国と地獄』を刊行し、詩編と三行の句を縒り合せて、その出発からすでに独自の境地を展開している。
安井浩司はその書評に「昨今の俳句界に突如現れた新星である。しかし、彼を俳人と称するにはためらいがある。私には当初から、彼を詩人と呼ぶにふさわしい思いを遂に消すことが出来ない」とエールを送っている。
ともあれ、大岡頌司の三行句を以下に・・・

     ちづをひらけば
     せんとへれなは
     ちいさなしま


     しばのとを
     たたきつづけて
     われとなる

     花の忌や
     筑波も翔べぬ
     風の鷺



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